Skip to content

Latest commit

 

History

History
4404 lines (2202 loc) · 154 KB

File metadata and controls

4404 lines (2202 loc) · 154 KB

『アイリスと茨の王』(後編)


 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

独りの王の奮闘と、その成就を占う皇帝争いの始まりを。

その王の傍にいることを望み、自らの心の在り方を強く決める少女の覚悟を。

 

しかし、独りの王と一人の少女の抱いた願いと想い、それは止まらぬ流血と命の漏出、そして積み重なる大勢の終焉の上に曇り始める。

 

物語は変質を始める。

それは独りの王の戦いの傍ら、一人の少女を襲った悲劇を発端に。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――あれよあれよという間に『選帝の儀』は始まってしまった。

 

それがアイリスの率直な感想であり、そんなだから全然自分は足りないのだと、そう自責の念を強く抱かせる理由でもあった。

覚悟はしていた。だが、それがつもりに過ぎなかったと思い知らされる。

 

正直に言えば、アイリスは『選帝の儀』が始まるのはまだまだ先のこと――ユーガルドが皇帝になるための本格的な戦いは、何年も未来の話だと思っていたのだ。

しかし、そんな悠長な考えでいたのはどうやらアイリスだけだったらしい。

 

「先代皇帝、ラドカイン・ヴォラキアが身罷られ、『選帝の儀』が始まる。――余は、第十九皇子として帝位に就くことを望む。そなたらの奮戦に期待する」

 

エルカンティ領全体へ向けられたユーガルドの宣言は、これもまたウィテカーがどこかから引っ張り出してきた魔具の効果で全土へ届けられた。

図らずも、その宣言を切っ掛けに『選帝の儀』は本格的に始まった。――否、もしかしたら、これを図らずもと思っているのもアイリスだけかもしれない。

 

実際のところ、ユーガルドを代表としたエルカンティ陣営の戦略や方針は、アイリスには詳しく共有されていなかった。

それは軍事のわからないアイリスが、所詮は片田舎の村娘の出だと侮られているなんてわけではなく――、

 

「……自分が情けないです」

 

ぐったりと、重たい体を寝台に横たえ、アイリスは自分のことをそう呪う。

その自分に呪われたアイリスの体は高熱を発し、それこそ『選帝の儀』が始まった日取りと前後して、ずっと彼女を病床へと伏せさせていた。

 

今、ユーガルドは自領の軍を引き連れ、他の皇子と戦うための遠征中だ。

本来なら、アイリスはユーガルドの身の回りの世話を担当するため、その遠征にも同行する予定だった。だが、意気込みと裏腹に熱を持った体は自由にならず、結局、アイリスは屋敷に残らされる形になり、こうして悔しい思いを噛みしめている。

そうして、ただ役立たずでいるのも歯痒いのに、

 

「センセイまで、こんな風に屋敷に引き止めてしまって……」

 

「まったく、そんなこと病人が気にするものではないモイ。それに、元々小生は戦場であまり役立てることもないモイ。戦力に影響はないモイよ」

 

「でも、センセイもその短い爪と大きな鼻で大活躍するつもりだったはずですよね」

 

「せいぜい穴掘りと斥候にしか役に立たんモイ!わかってるはずモイ!」

 

大きな鼻をブルンブルン揺らして、アイリスの看病をするリネックが声を高くする。そのリネックの態度に掛布団を引き上げ、アイリスは「ごめんなさい」と呟く。

弱々しいアイリスの声、それにリネックは「重症モイ」と頭を振った。

 

見ての通り、アイリスが熱を出したせいで、リネックまで屋敷に足止めだ。

リネックは大勢に影響がないなんて言ってくれているが、ヴォルカス率いる懲罰部隊はエルカンティ軍の主力だと聞いている。その一員であるリネックにも替えの利かない役目があったと考えると、アイリスの存在は利敵行為の塊だ。

 

「考えすぎモイ。心配しなくても、小生の代わりは大勢いるモイよ」

 

「代わりはいるって、でも……」

 

「戦地での癒者の真似事だモイ。小生がいなくても、ちゃんと小生の教えや知識が生きていれば、部隊のものたちで対応できるはずモイ」

 

そう言いながら、リネックはアイリスの寝台の傍らで、すり鉢に複数の薬草を入れてすり潰し、アイリスのための薬湯を調合している。

その手慣れた手つきは、アイリスがその昔、大病で苦しんでいたときに診てくれた本物の癒者よりもちゃんとして見えた。とても、リネックの代わりが大勢いるなんて信じられないぐらい、ちゃんと。

 

「さあ、ぐっと飲み干すモイ。言っておくと、壮絶な味モイ」

 

「そんな、センセイが作ってくれた薬をマズいなんて……ぐええ!」

 

「だから言ったモイ」

 

毒を飲まされたと錯覚する衝撃的な味に、思わず悲鳴を上げてしまった。しかし、味の悪いものは、体の中の悪いものを相殺してくれるという迷信があるように、何とか我慢して飲み干すと、体に効いているような気がしてくる。

 

「気のせいだモイ。またすぐに苦しくなるモイよ」

 

「センセイ、もっと優しくしてください……」

 

「希望的な観測は言えないモイ。ただ、この苦みと苦しみを積み重ねていった先に快癒があるはずモイ。何事も、一歩一歩着実にモイ」

 

「何事も、着実に……」

 

口の中に残った苦味、それを水で何とか胃に落としながら、アイリスは目を伏せる。

その言葉に思ったのは、自分の体調のことよりもユーガルドのことだ。

 

「今頃、閣下たちはどうなんでしょう」

 

「ちゃんと前線からの報告はきているモイ。どうやら、ヴォルカスがずいぶんと張り切って活躍してるモイよ。アイリス殿のためモイ」

 

「……借りとか貸しとか、あんな態度でちゃんと律儀なんですから」

 

リネックの話に、アイリスは出立前に顔を出したヴォルカスを思い出す。

熱で倒れたアイリスを容赦なく馬鹿にして嘲笑った彼は、しかし、アイリスがいなくても成果は変わらないと約束して出ていった。あのぶっきらぼうな態度がアイリスへの気遣いだと、そこは疑っていない。

実際、ちゃんと有言実行するのだから大したものだ。

 

「むしろ、ちゃんと言ったことをやってる分、わたしより立派……っ」

 

「アイリス殿!?泣いてるモイ!?」

 

「ご、ごめんなさい。揺るぎない情けなさで泣けてきてしまって。続けてください」

 

じわりと込み上げる涙を袖で拭い、アイリスはリネックに先を促す。リネックはそのアイリスの様子を気にしつつ、「おほん」と咳払いし、

 

「閣下たちは順調に、進軍計画を消化しているモイ。元々、皇位継承権を持つ皇子たちは『選帝の儀』で二つの派閥に分かれるモイ。帝位を求めて戦う皇子と、領地の安堵と引き換えに敗北を認める皇子モイ」

 

「……負けを認めても、ダメなんですよね。その」

 

「――皇子の命はないモイ。代わりに領民に余計な犠牲も、生家に不要な圧力がかけられることもないよう約束は交わせるモイ。必然的に、皇子が幼いまま『選帝の儀』の始まりを迎えてしまった家には選択肢がないモイよ」

 

「――――」

 

「後者の皇子たちとは事前の取り決め通りに、前者の皇子たちとも衝突を始め、これに勝利するのを続けているそうだモイ」

 

ユーガルドの勝利の報告、それをアイリスは手放しに喜べない。

ユーガルドが勝利するということは、ユーガルドと同じ血の通った兄弟姉妹の誰かが命を落とすということであり、彼が一歩ずつ血塗れの道を往くということなのだ。

 

そうして、彼が血塗れの王冠を被ることを厭うのではない。

アイリスはすでに、自分が切っ掛けでユーガルドが覇道を往くと決めたことを受け入れ、ちゃんとその事実を受け止める覚悟を決めている。

手放しに喜べないのは、ユーガルドを一人で歩かせてしまっていることだ。

 

始めた『茨の王』と、始めさせた一人の女として、共に血に塗れるつもりだった。

それなのに――、

 

「……気が滅入るようなら、やはり閣下と話す機会を設けるモイ。病と闘うには気力も必要とされるモイよ」

 

「センセイ、わたしがこれまで何度、高熱に浮かされてきたと思うんです?言われなくても、病気との戦い方は知ってますよ」

 

「笑えないモイよ」

 

小さく舌を出し、茶化してみるがリネックには不発。たぶん、ちっとも表情を作れていなかったのだと自分の演技力の低さも嫌になる。

とはいえ、アイリスはリネックの提案――前線と連絡を取り合っている『対話鏡』を借り、離れた地にいるユーガルドと話すというのを拒んでいた。

その理由は、とても単純で自分勝手なものだ。

 

「わたしまで、閣下と鏡で話すようになりたくないです……」

 

『茨の王』として、誰からも遠ざけられて――否、周りを傷付けないように自分から遠ざかることを選んでいたユーガルド。ウィテカーの助けを借り、『対話鏡』越しになら人と話せるようになった彼だが、アイリスは手放しに歓迎できないでいた。

 

自分以外の人間もユーガルドと話せることへの嫉妬、ではない。

そういった気持ちがゼロとは言わないが、アイリスが鏡を嫌がる理由は、あれがより明確にユーガルドを独りにしている象徴に思えてしまうからだ。

便利ではある。それでも今後、ああしてユーガルドに接することが普通になれば、誰も痛みを堪えて彼の前に立とうとは思わなくなるだろう。

 

「せめて、わたしは……」

 

ユーガルドの茨の縛め、その苦痛を知らない立場でこんなことを言うべきではないとわかっているが、アイリスだけはユーガルドと直接触れ合える人間のままでいたい。

それを理由に、アイリスはユーガルドと『対話鏡』で話すのを拒んでいた。

 

「……アイリス殿と閣下のお気持ちの問題モイ。小生は偉そうなことは何も言えんモイ」

 

「ごめんなさい、センセイ。でも、閣下も同じ気持ちでいらっしゃったので」

 

出立前、寝台のアイリスに別れを告げにきたユーガルドも、自分の方から『対話鏡』での通信をしたくないと、そう言い出してくれた。

同じ理由、同じ気持ちであったことを、アイリスは嬉しく思ったものだ。

だからこそ、一日も早く病を治して、戦場にいるユーガルドの傍らへ――、

 

「む、誰モイ?」

 

ふと、寝室の扉がノックされ、リネックが鼻を震わせて立ち上がる。

そのまま入口に向かったリネックの姿が、寝そべっているアイリスの視界から消える。しかしすぐ、リネックの「モイ!?」と驚く声が聞こえて。

 

「どうもどうも、お辛いときに邪魔してすみませんね、アイリス様」

 

「え……ウィテカー、さん?」

 

絨毯を踏む音を立てながら、朗らかな声と微笑で姿を見せたのは線の細い男だった。

鏡越しに、ユーガルドの隣で何度も目にした糸のように細い目の赤毛男――ウィテカー・ゴルダリオの実物に、アイリスは発熱も忘れて目をぱちくりさせる。

 

「どうしてここに……」

 

「どうしてって、お見舞いですとも、お見舞い。仕えてるユーガルド閣下の寵姫が病床に伏していて、こちらの地方で交渉事があるとなれば寄らない理由がない」

 

「交渉のついでとは、口さがないことモイ」

 

「おや、すみませんね。どうにも正直者すぎる性質でしで。はははは」

 

被った帽子を脱ぎながら、病床のアイリスに笑いかけるウィテカー。

リネックの珍しい皮肉っぽい言い回しも、聞き慣れている風に対応するウィテカーの様子を見上げ、アイリスの驚きはなかなか落ち着かない。

それでも、アイリスは何とか寝台で体を起こし、

 

「わざわざこさせてしまってごめんなさい。それと、ちゃんと会えたのは初めてなのに、こんな出迎えで……」

 

「ああ、無理されませんよう。見舞いにきたんですから、アイリス様が万全でないのは承知してますよ。その方が手土産的にはありがたい」

 

「お土産?」

 

ぎょっとするようなことを言ったウィテカーが、アイリスの疑問に「はい」と頷き、手に持っていた鞄をリネックへと押し付ける。

無理やり鞄を渡されたリネックは驚くが、彼の驚きはその直後の方が顕著だった。

 

「モイ!?こ、こんな貴重な薬草をどこで……それも、鞄一杯モイ!?」

 

「そういうものを手広く集めるのが我が家の特技なもので。そこから先は僕よりも、リネック殿の方が適任のはずだ」

 

「せ、責任重大モイ……」

 

「それはそうでしょう。――閣下の寵姫の看病だ。まさか、気楽な後方待機だなんて誤解してたわけじゃあるまいし」

 

鞄の中身に唖然としたリネックが、続くウィテカーの言葉に押し黙る。

その厳しい言葉に、アイリスは「ウィテカーさん」と彼を呼び、

 

「センセイはよくしてくれてます。そんな風に言わないでください」

 

「おっと、失礼を。リネック殿も、気を悪くされたらすみません」

 

「いや、大丈夫モイ。そちらの言うことも正論で……」

 

「嫌われついでに、アイリス様とだけ話したいことがありまして、ちょっと二人きりにさせてもらえませんかね」

 

「モイ……!?」

 

謝罪し、相手の許しを得るより早く矢継ぎ早の話題。

ウィテカーの話術にリネックが翻弄され、その内容にアイリスが眉を寄せた。ウィテカーが自分と話したい。それも二人きりでと。

 

「もちろん、閣下と関係のあることで」

 

「――。センセイ、お願いします」

 

心を見透かしたようなウィテカーの言葉に、アイリスはリネックにそう頼む。リネックは少し躊躇したが、最終的に背中を丸めて寝室から出ていった。

その様子に、少し悪いことをしたとアイリスは思ったが。

 

「さて、改めてご体調はいかがです、アイリス様。聞いたところによると、アイリス様は村で暮らしていた頃から体力に不安があったとか」

 

「う、そうなんです。大人になってだいぶマシになったと思ってるんですが……」

 

「ここ一年はなかなかの激動ぶりでしたからね。ユーガルド閣下と出会い、自分の生まれ故郷とご家族を亡くした。慣れない貴族生活に混ぜられ、教わることも覚えることも両手の指では足りないほどあって、閣下の『選帝の儀』まで始まって」

 

「ずけずけした言い方ですけど、そうです」

 

「すみません、率直な物言いしかできない性質で」

 

この一年、アイリスの身に起こった出来事を羅列されると、間違いなく人生で一番濃密な時間だったと言い切れる。

次から次へと降りかかる多忙な毎日に、それは息切れもしようというものだ。

それでも、息切れはしたくなかった。実際、自分以外の誰も、それこそ一番大変なユーガルドは精力的に問題に対処し続けているのに。

 

「弱くて、自分が嫌になります……」

 

「アイリス様が弱い、ですか?御冗談を」

 

ままならない自分をアイリスが呪うと、それを聞いたウィテカーが眉を上げる。

思いがけない言葉にアイリスは皮肉を疑うが、瞳の見えないウィテカーの糸目は、その内心を覗かせないまでも、悪ふざけしては見えなかった。

 

「我が家の仕事柄、僕は弱い人間というのをたくさん見てきましたが、アイリス様が弱いとは到底思えませんね。賛同できない」

 

「で、でも、実際にこうやって熱も出て……」

 

「体力的な不安と、強い弱いという評価は秤が違うと僕は思います。例えば、リネック殿やヴォルカス殿とのご関係はいかがです?」

 

「センセイと、ヴォルカスとの関係」

 

「はい。あの二人や懲罰部隊はアイリス様のご家族の仇でしょう?」

 

平坦な調子で紡がれた言葉に、アイリスは息を詰め、ウィテカーを見た。

 

「すみません。初めてお話したときお伝えした通り、ユーガルド閣下周りのことはアイリス様のことも含めて調査済みで。もちろん、村のことも知ってます」

 

「そう、ですか。……いえ、別に隠していることじゃありませんから。ただ、大っぴらに言ってもわかってもらえないと思うので」

 

「それはそうですね。僕も最初、この話を知ったときは出来の悪い冗句かと。だって、普通に考えたらできない決断だ。あなたのものも、閣下のものも」

 

ウィテカーの語り口、それは糸目の奥の瞳と同じく、感情が読み取れない。

そこに怒りや喜びのような感情はもちろんないが、かといって冷静に平静に綴っているようにも聞こえない声色。強いて言えば、それは興奮に感じた。

声に期待の熱を孕ませ、ウィテカーは顔の前で手をすり合わせる。

 

「ユーガルド閣下が余人と違った考え方をされるのはわかります。あの方は『茨の王』として、人とは異なる生き方を余儀なくされてきた。ですが、アイリス様、あなたは?」

 

「……わたし?」

 

「あなたは、その生まれに何の特別もない一介の村娘に過ぎなかった。そのあなたが、ユーガルド閣下のような、一種の常道をいかない方と同じように物を見られるのは何故なんです?――やはり、病で生死を彷徨った経験が原因ですか?」

 

「――。無関係じゃない、とは思いますけど」

 

言葉数の多いウィテカーに圧倒されながら、アイリスは問いかけに首肯する。

過去、それこそ父母を亡くし、ヴォルカスを生かすと決めたあの日にも、アイリスは同じ話をユーガルドに語った覚えがあった。

 

重い病で死にかけて、何の奇跡か生き残った自分。

そのときの経験が理由で、アイリスは他の誰よりも『死』を身近に感じていたのかもしれない。ただ、そんなものはアイリス以外の――例えば、戦場で戦うことを生業とした兵士や傭兵だって同じことだ。

 

「いいえ、むしろわたしよりも、その人たちの方がよっぽどちゃんとしてます。だから、わたしの考えはそんなに特別なことじゃなくて……」

 

「でも、誰もやろうとしてもできない。僕はそれを、実に『どらまてぃっく』な選択だと思うんですよ、アイリス様」

 

「……どらまてぃっく」

 

「それを求めるのが僕の行動原理というもので。――そうできる人が、羨ましい」

 

おそらく、ウィテカーは自分を装うのが得意な人種だ。この寝室での会話も、これまでの鏡越しで見せられた姿も、ウィテカーは常に装っていたように思う。

だからこそ、最後の羨望だけはウィテカーの本心だったと、そうアイリスは感じた。

 

「だけど、わたしが弱くないって話になってないような……」

 

「アイリス様も、閣下が弱いとは思われないでしょ?その閣下と同じ物の見方ができるってことは、アイリス様も同じように弱くないってことですよ」

 

「むう、丸め込まれてる気がします」

 

手をすり合わせる動きを止めて、両手を開いたウィテカーの言葉にアイリスは不満。その反応にウィテカーは喉を鳴らして笑った。

 

「あの、わたし、病人ですよ?お見舞いならちゃんと見舞ってください。そんな話がしたくてセンセイを追い払ったんですか?」

 

「ああ、違いますよ。アイリス様に確かめたいことがありまして。――アイリス様は、『狂戦病』という病を聞いたことがありますか?」

 

「……いいえ?」

 

「実は、アイリス様が幼い時分に患った大病ですが、それではないかと思ってまして」

 

「え……」

 

不意打ち気味のウィテカーの発言に、アイリスは目を見張った。

聞き覚えのない病名、『狂戦病』。それが自分がかつて苦しめられた病気と言われ、いきなり幼い頃の自分の仇の名前を告げられた気分だ。

しかし、アイリスの衝撃はそれだけにとどまらなかった。

 

「この『狂戦病』ですが、魔女戦争の時代に猛威を振るった一種の伝染病だそうで、今ではほとんど駆逐されたんですが、時々血族に遺伝するらしいんですね。たぶん、アイリス様のご両親や祖父母を辿ると罹患者が出てくると思いますよ」

 

「そう、なんですか。知らなかったです。癒者さんは流行り病じゃなさそうだし、風土病じゃないかって言ってたと思って」

 

「その癒者もわからないなりに手を尽くしたようだ。当時のアイリス様を生き延びらせ、今日まで小康状態を保たせ続けたんですから」

 

「そうですね。癒者さんのおかげで――」

 

もう顔もおぼろげな恩人への謝意を思い出そうとして、アイリスの動きが止まった。

今、ウィテカーはなんと言ったのか。小康状態、と言わなかったか。

 

「小康状態って……」

 

「完治していないってこと。長年、アイリス様が体力に不安を抱えている理由は、『狂戦病』が今も悪さを働いているからだ。その上、この病は絶えず、進行していく」

 

「――そん、な」

 

病の進行と聞かされ、アイリスは高熱を忘れ、全身が冷たくなったように感じる。

一刻も早く体調を戻し、ユーガルドのところへ駆け付けるつもりでいた。それが叶わないどころか、もっと大きな問題を抱えていると、それでは。

 

「わ、わたし……」

 

かつて、熱に浮かされながらアイリスは強く『死』を意識した。

それ以来、アイリスは自分が死ぬこと自体に大きな恐怖は感じない。――だが今、自分が死ぬことで、自分と繋がったあらゆるものが崩れる確信がある。

 

「わたし、死ねません……!どうすれば」

 

「――――」

 

「どうすれば、死なないでいられますか!?どうすれば、閣下のお傍に……」

 

「言ったでしょう。『狂戦病』は駆逐された病だと。だから、腕のいい癒者でも病の存在自体を知らない人の方が多いぐらいだ」

 

「じ、じゃあ、治し方も……」

 

「――なので、治療に必要な薬草を揃えるのも苦労しました」

 

「え……」

 

バクバクと、うるさい心臓の音に紛れ、ウィテカーの言葉の聞き取りが遅れた。顔を上げたアイリスの前、ウィテカーが帽子を丁寧に被り直す。

そして、帽子を被った彼の顔は笑みを刻んでいて。

 

「リネック殿に持たせた薬草がそれだ。『狂戦病』は殺し方のわかってる、もう負けた病ですよ。心配ご無用です」

 

「あ、あ、あ、あなた……わざとでしょう!?」

 

「ははは、なかなか『どらまてぃっく』な表情でしたよ」

 

ウィテカーの信じられない悪ふざけに、アイリスは声を高く裏返らせた。

それを彼は拍手でもされたように丁寧に一礼すると、ますます熱の上がりそうなアイリスへといやらしい笑みを残し、背を向ける。

 

「これで用事は済みました。どうぞご養生ください、アイリス様。あなたに何かあるたびに閣下が動揺されて、色々計画の修正が必要になるので」

 

「閣下に言いつけますからね!」

 

「そんな些末なこと、できませんよ、あなたには」

 

絞り出した負け惜しみは涼やかな笑みに跳ね返され、アイリスは撃沈。それに満足したようにウィテカーが寝室を出ていき、アイリスは寝台に倒れ込んだ。

熱で頭がボーッとするが、それがただの体調不良だけなのか、それとも自分の中で生まれた感情の奔流が影響しているのか、わからない。

 

「『狂戦病』……」

 

長年の宿敵の名前がいきなりわかって、それが自分を殺しかねない強敵だとわかって、でもその強敵で宿敵な相手の殺し方もわかって、用意も済まされている。

ウィテカーの悪趣味には怒っていいのか泣き喚くべきなのか悩まされるが、最終的に提示された希望だけの話をするなら――、

 

「わたしも、生きられる……」

 

こんな風に、肝心なときに熱を出してユーガルドの傍にいられず、そんな自分のことを心底嫌い、呪うようなことをしなくてよくなる。

知らなければ病気に殺されていたところ、その恐れもなくなる。

 

ユーガルドの傍で、アイリスとしてできることをちゃんとしてあげながら。

 

「――ぁ」

 

小さく、掠れた声が喉から漏れ、アイリスはひどく今さらな気持ちに気付く。

安堵して、自分の今後を改めて考えて、そして自然とユーガルドの傍らにいる自分を思い浮かべて、思った。

 

「……閣下が、好き」

 

二度にわたって命を助けられ、何もかもなくしたアイリスを傍に置いてくれて、アイリスのためと憚らずに帝国の皇帝の座を目指し、優しい目でアイリスを見る男。

振り回され、付き合わされ、自分でもそうするのが正しいような、そんな奇妙な使命感を理由に彼とい続けた。でも、違った。

 

「わたしは、閣下が好きです」

 

生きられるとわかった今、ようやく自分の気持ちに気付く。

アイリスはずっと、ユーガルド・エルカンティに恋をしていたのだと。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「――我が星」

 

ふと、愛しい少女の声が聞こえた気がして、ユーガルドは一人の天幕で顔を上げた。

 

「――――」

 

当然だが、視線を巡らせても天幕の中にアイリスはいない。

彼女は遠征直前に体調を崩し、屋敷に残って療養中だ。元々、体力に不安があると本人も自己申告しており、幼少期に大病を患ったことが原因だと話していた。

それでも無理を押して遠征に同行する予定だったが、度重なる環境の変化で溜まった疲れが噴き出したのだろう。

あくまで出発直前で、遠征の最中の発熱でなかったのは不幸中の幸いだった。

 

「屋敷であれば、リネックや侍女が万全の看病をしよう」

 

これが遠征中の、自由の利かない中で起こったことなら対処も困難になる。そうなった場合の考えが足らなかったと、ユーガルドも反省の極みだ。

と、そうユーガルドが眉間に皺を寄せていると――、

 

『おい、いきなりアイツのこと考えて黙ってんじゃねえぞ、領主野郎』

 

「む」

 

『報告の真っ最中だろうが、ちゃんと聞けや。テメエがアイリスのことであれこれ思い悩めんのはオレの用事が済んでからだ!』

 

荒々しく尖った声、それがユーガルドの目の前の『対話鏡』から発される。

通信中の光を放っている鏡面、そこに映し出されているのは巨躯の黒い狼人――懲罰部隊を率い、エルカンティ軍の主力として戦うヴォルカスだ。

直前まで、彼と戦況と戦略について話し合っていたことを思い出した。

 

「すまぬ。今しがた、我が星の声が聞こえた気がしてな」

 

『アイリスの声……?まさか、追っつけきてるってんじゃねえだろうな』

 

「いや、そのような報告は受けていない。アイリスについては些細なことでも連絡するようリネックに厳命してある。その命に逆らうなら、『服従の首輪』の出番だ」

 

『これまでいっぺんも使ってねえ首輪をそんな風に使うんじゃねえ!』

 

淡々としたユーガルドの言葉に、ヴォルカスが大口を開けてそう吠える。そのヴォルカスの首にも、リネックと同じ『服従の首輪』が嵌められている。

もっとも、ヴォルカスとリネック、他の元野盗の一味だった全員の首に嵌められた『服従の首輪』は、これまでに一度もその機能を使われたことがない。

使う必要がなかったから、だ。

 

「そなたらの働きには目を見張るものがある。懲罰部隊に加わった経緯は経緯だが、余はその貢献を高く評価しているつもりだ」

 

『ハッ!そうしてもらわなきゃ困るぜ。――オレの牙についてる血は、テメエの兄弟を守ろうって奴らの血なんだからよ』

 

「そうだな。大儀である」

 

勇ましく自分の功績を誇るヴォルカスに、ユーガルドは静かに顎を引いた。

事実、ヴォルカスを隊長とした懲罰部隊の活躍は目覚ましく、先代皇帝の崩御から雪崩れ込むように始まった『選帝の儀』において、すでに幾度も発生している皇子同士の軍勢の激突でも破竹の勝利を重ねている。

 

「ただし、可能な限り、兵らに略奪行為は抑えさせよ。褒美は十分に与える。戦果の証明に首や耳を集める必要もない。周知させるように」

 

『何べんも念押しすんじゃねえ。首輪があるのに馬鹿働くような奴はオレの部下にはいねえよ。他の部隊も、ひとまず従ってんだろうさ』

 

「そうか、ならばよい」

 

略奪行為の禁止は、ユーガルドが下した指示の中でも徹底したいものだ。

元より、『選帝の儀』の戦いはあらゆる意味でヴォラキア国内の内戦であり、どれほど早く決着しようと国力の低下は免れない。流す血と失う命は最小限に、負った傷をすぐに治す体制を整えるのは絶対条件だ。

そうした観点を抜きにしても、勝者が過剰に弱者から搾取する光景をユーガルドは好まない。心優しいアイリスも、同じ視点で物を見ているはずだ。

 

「我が星……」

 

気を抜くと、ついついすぐにアイリスのことを考えてしまう。気を抜かなくても、何かにつけて関連付けて彼女を思い出すのだが、気を抜くと特にだ。

 

『なあ、テメエは別に前線にいる必要はねえんだぜ』

 

「――。何を言う?」

 

『だから、テメエは出張ってくる必要ねえって話だ。どうせ、出てきても陣の後ろか端っこで鏡に話してるだけだろうが。いても意味ねえって言ってんだよ。それとも、テメエ一人で戦場出てって、敵連中を全滅させるか?』

 

「そなたたちを打ちのめしたときのように、か」

 

『余計なこと思い出してんじゃねえ!』

 

自分から言い出して理不尽に怒るヴォルカス、彼の言いたいこともわからなくないが、さすがにそれは『茨の王』を過大評価しすぎだ。

 

「余の茨の縛めがあろうと、数千単位の戦いでは不覚も起ころう。試したことはないが、茨にも限度はあろうしな」

 

野盗だった頃のヴォルカスたちや、小さな村単位であれば全員を茨で縛めることも可能だろうが、最大人数はこれまで検証したことがない。わざわざ他者を苦しめる実験などしたくないものだ。

さすがに数千数万の軍勢相手では全員を縛めるのは不可能だろうし、茨の影響を受けない距離から攻撃されれば、ユーガルドに近付くまでもなく仕留められる。

 

アイリスの存在以外にも、『茨の王』を殺す方法はいくらでもあるのだ。

ただし――、

 

「殺すのではなく、『茨の王』を生かせるのは我が星だけだ」

 

彼女がいなければ、ユーガルドは『選帝の儀』を戦い抜こうとはしなかった。

すでに敗北を認め、領地の安堵と引き換えに命を差し出した皇子たちと同じく、ユーガルドも可能な限りの条件を相手に呑ませ、速やかに毒を飲んでいたはずだ。

 

「故に、余の力を当てにした策は立てぬ。すまぬな、ヴォルカス」

 

『ちっげえよ!テメエがいても意味ねえから、アイリスの傍にいてやりゃいいじゃねえかって言ってんだ!言わせんな、領主野郎!』

 

「――。そういう意味であったか」

 

罵声と共に真意を告げられ、ユーガルドはヴォルカスの配慮に目を丸くした。

助命を嘆願され、命を繋いだ経緯もあるため、ヴォルカスはずいぶんとアイリスに感謝している様子だったが、倒れた彼女を心から案じていたとは。

しかし、ユーガルドは首を横に振った。

 

「気遣いはありがたいが、それはせぬ。これは余が始めたことだ。その推移を仔細まで見届けるのが余の役割であり、皇族としての務め、皇帝となるものの義務である」

 

『チッ、鏡で話すのも我慢してやがるってのにか』

 

「我が星と共に決めたことだ。余も、触れられぬ我が星と話すのは応える」

 

その答えにヴォルカスが舌打ちするのが聞こえ、ユーガルドは片目をつむった。

冗談めかして聞こえたかもしれないが、紛れもない本音だ。試したことがあるわけではないが、試したくもないというのがユーガルドとアイリスの総意だった。

 

触れ合える距離で、顔を見て話せるのがユーガルドとアイリスの二人だ。

その距離感はユーガルドにとって、きっとアイリスにとっても特別なものであり、それが別の方法で代替できるというのを認めたくない。

 

「少々、皮肉な話ではあるがな」

 

アイリスとは触れ合える距離で、顔を見て話す以外のことをしたくない。

それが理由で彼女と離れ離れになるのは本末転倒――それを言い出すなら、ユーガルドが『選帝の儀』で勝ち残ることを決めたのは、アイリスの安寧と幸福、そして少しでも長く彼女といたいという自分の気持ちが理由だ。

現状、『選帝の儀』に参加することでかえってアイリスとの時間を減らしている。選んだ道を貫徹しようとするなら、それは避けられないことだ。

 

「そなたが余とアイリスのためを思うなら、このまま勝利を重ねよ。それが最も早く、余をアイリスの下へ帰らせるための方法だ」

 

『テメエのためでもアイツのためでもねえが、やってやるよ。その代わり、テメエ、この調子で皇帝になったらオレの扱いはちゃんとしてもらうぜ?』

 

「無論だ。そなたの働きは『将』として十二分に遇するに値する」

 

『お、おお……わ、わかってりゃいいんだ、わかってりゃあ』

 

何故かやけにドギマギしながら、ヴォルカスとの『対話鏡』の通信が終わった。

本題から逸れた話も多かったが、ヴォルカスがアイリスを案じていた事実はユーガルドにとっても収穫だった。荒くれな狼人をもほだしたアイリス、さすがである。

 

『――ユーガルド閣下、今、お話しできますでしょうか?』

 

ヴォルカスとの話を終えて、水差しから杯に水を移していたユーガルドは、また別の『対話鏡』からの呼びかけに振り向いた。

数の限られた『対話鏡』を持たされているのは、陣営の中でも重要な立場のもの。その中でアイリスのものではない女性の声とくれば、該当者は一人だ。

 

「テリオラか。構わぬ。何か報告か?」

 

光り輝く鏡面に映し出されているのは、長い赤髪にドレス姿のテリオラだ。

彼女もまた、後方支援を担当しながらエルカンティ軍に同行している。そうして戦場にあっても手抜かりない身嗜みに、ゴルダリオ家の意識の高さを垣間見た。

 

実際、兄であるウィテカーの進言した通り、テリオラはよく働く娘だ。

『選帝の儀』における軍議の場で積極的に発言できる立場でないことも弁え、彼女が専門とするのはもっぱら他陣営の諜報と、そこから得たものを用いた情報戦。

実際、テリオラの指揮するゴルダリオ家の諜報員――シノビのもたらした情報が、戦わずして儀式から降ろさせた皇子も片手に余るほどいる。

 

「先日の、クリオール家への調略、大儀である。見事な差配であった」

 

『光栄ですわ、閣下。ですが、私はあくまでお兄様の指示に従っただけですもの。我が家の働きを認めていただけるなら、その言葉はお兄様の方へ……』

 

「無論、ウィテカーの働きは評価している。だが、指示したのがウィテカーであろうと、実際に実行し、実現し得たのはそなたの力量だ。故に、そなたの労もねぎらいたい」

 

『閣下……』

 

切れ長の瞳を見開き、そう驚いてみせるテリオラの表情は常の厳しさが抜け、普段は隠し通している素の彼女の顔が垣間見えた。

ゴルダリオ家の人間として、あのウィテカーを支えなくてはならない自覚が、テリオラをどれほど強く縛めているのか、ユーガルドは不憫と紙一重の感嘆を覚える。

 

『そのようなお考えをなさらないでください、閣下。生まれる家は選べませんが、私は我が家の生まれの中で自ら最善を選んでいるつもりですもの。ユーガルド閣下が置かれた難しい立場を思えば、私など』

 

「余には余の苦楽があり、そなたにはそなたの苦楽がある。それらを比べ、どちらがより大きく重いかなど論ずる意味はない。余はいずれ皇帝になるかもしれぬが、それを理由にそなたの日々を軽んじるなど言語道断だ」

 

『――――』

 

「それこそ、そのような考えは我が星に叱責されてしまおうよ」

 

思いやりの塊であるアイリスに、そんな酷薄な考えなど聞かせたくもない。

そのユーガルドの言葉に、テリオラの琥珀色の瞳が複雑な感情を交えた。それは歓喜と感銘、そして悲嘆と諦念、実に複雑な色だった。

 

「すまぬな。どうやら話が逸れた。そなたの報告を聞かせてくれ」

 

『――。いえ、報告というわけではありませんの。閣下の天幕の用意が整いましたので、いつでも移っていただけますわと』

 

「そうか、天幕のことか」

 

テリオラが天幕の単語を出したことで、ユーガルドは彼女の話の意図を察した。

行軍中、ユーガルドの過ごす天幕は陣内の端に張られている。他者と共に行動できないユーガルドの体質上、一人で過ごすのは仕方のないことだ。

本来、そうした寂寥を紛らわすのと、ユーガルドの身の回りの雑事をアイリスが担当する予定だったが、彼女が倒れてそれもなくなった。

その結果、ユーガルドは自分の身の回りを自分ですることを余儀なくされたのだが、

 

『そのような雑事に閣下を煩わせるなど、言語道断ですわ』

 

そう主張し、テリオラは素早く対案として二つの天幕を用意した。

それにより、片方の天幕を使用中、もう片方の天幕の清掃や整頓を済ませる仕組みを作り、ユーガルドは天幕を交互に行き交うこととなった。

移動の手間はあるが、確かに雑事に煩わされることはなくなっていて助かっている。

 

「もっとも、雑事に煩わせるという意味ではそなたも同じであろう。わざわざ、立場のあるそなたが天幕の片付けなど……」

 

『いいえ、大事なときですわ。ほとんどありえないこととわかってはおりますが、閣下に悪心を抱くものが忍び込まないとも限りません。その点、私はその心配は不要です。それは閣下も認めてくださるでしょう?』

 

「それがゴルダリオ家の方針であるからか」

 

『――。ええ、そうですわ。もちろん、本来ならこれはアイリス様のお役目ですもの。閣下にはご不満もあるかと思いますけれど』

 

「いや、ない」

 

わずかに声の調子を落としたテリオラが、そのユーガルドの断言に『え』と驚く。

しかし、良い働きをするものに思い違いをさせておくのは望ましくないと、ユーガルドは鏡の中のテリオラを見据え、伝える。

 

「そなたは限られた条件下で果たせる仕事を十全に果たしている。余はその働きに満足しているゆえ、不満などない」

 

『――――』

 

「大儀である、テリオラ・ゴルダリオ。以後もよく仕えよ」

 

『――はい、ですわ』

 

白く細い指を胸に当てて、テリオラがユーガルドの言葉に深く頷く。

伝えた通り、テリオラの働きにユーガルドは満足している。彼女はアイリスの仕事を奪っている罪悪感があるようだが、それを重荷に思う必要はない。

やはり、たとえ復調したとしても、アイリスを遠征に同行させるべきではない、というのがユーガルドの結論だからだ。

 

「我が星には、戦場の空気はできるなら吸わせたくはない」

 

望まぬ環境に立つことは、アイリスの心身を容易に損耗させる。

彼女に覚悟がないとも、その決意が脆いとも言わない。だが、どんな物事にも適性というものがあり、アイリスは戦場に立てる娘ではない。

アイリスはせめて、健やかであってくれさえすれば――。

 

『閣下のそのお心煩い、もしかすると取り除けるかもしれませんわ』

 

「なに?」

 

『あくまで、お兄様の推測なので確かなことは言えないのですけれど』

 

思わせぶりなテリオラの話に、ユーガルドは眉を寄せる。が、確証のない話か、ウィテカーからの許可がないのか、テリオラはそれ以上を言わなかった。ただ、それがユーガルドにとって悪い話ではないから口をついた、ということは間違いないらしい。

そのテリオラの、そしてウィテカーの企みとやらを知るためにも。

 

「――『選帝の儀』を、一日も早く終わらせることだな」

 

『ユーガルド閣下……』

 

「テリオラ、引き続きよく仕えよ。余は軍議がある。仔細、任せたぞ」

 

『――。承知いたしましたわ。閣下、どうぞご随意に』

 

「うむ。忠道、大儀である」

 

顎を引くユーガルドに一礼し、鏡面に映っていたテリオラの姿が消える。

それを見届け、ユーガルドは並べてあるいくつもの『対話鏡』を動作させる前に、自分の眉間を指で揉み、今後の進軍計画を頭の中で組み立て直す。

 

焦りは禁物とわかっていながらも、急く気持ちはどうしても主張し続ける。

痛みを知らないユーガルドがその疼きを止めるには、アイリスという特効薬を処方される以外に手立てがない。

だからこそ――、

 

「――暗天の中でもそなたを想う、我が星よ」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――かつてない灼熱に魂を焼かれる感覚だった。

 

熱を持った頭が、体が、アイリスに不自由を強いたことは何度もあった。

しかし、この灼熱がもたらすものは不自由ではない。これまでと比べ物にならないぐらい大きな大きなこの熱は、アイリスに自由をもたらすはずのものだった。

 

「~~っ」

 

体の中身が丸ごと炎にくべられるような苦しみがあって、アイリスは悶える。

幼い頃に病魔に苦しめられ、生きる力をごっそりと持っていかれたと思っていた体。その体が実はまだ病魔を駆逐できていなかったと知り、不思議と納得した。

アイリスが常に傍らにあるように思えていた『死』は、事実として克服されていない病の形で自分に寄り添い続けていたのだと。

 

「か、っか……っ」

 

熱い息をこぼしながら、アイリスは愛しい男を思い描く。

熱と涙でぼやけた視界は、見慣れた天井すら曖昧にぼかしている。だが、アイリスが見たいのは白い天井ではなく、この場にいない一人の男だ。

今も、アイリスの未来のために一人で戦い続けている彼のこと。

 

なんて傲慢な考えだろうとも思う。

ユーガルドが一人だなどと、彼を皇帝にしたいと望み、協力するウィテカーや臣下、血を流して戦うヴォルカスや領兵たちをなんだと思っているのかと。

もちろん、彼らには感謝している。彼らの気持ちが嘘とも思わない。

 

ただ、それでも、ユーガルドは一人なのだ。

唯一、彼の傍にいられるはずのアイリスが、傍にいないがために。

 

「いかなきゃ……」

 

息苦しさの極致を味わうアイリスは、自分がかつてと同じ――否、それ以上の苦しみに溺れているのを自覚しながら、必死に彼方の背中へ手を伸ばす。

幼い頃、熱病の湖で溺れていたアイリスが追いかけたのは、自分にとって身近な存在である父母の背中だった。助けてほしいと、必死で縋り付くばかりの、幼い自分。

でももう、アイリスは子どもではない。縋るのではなく、走り出せる。

 

「ユーガルド、閣下」

 

あの人のところへ、真っ直ぐに、走り出せる――。

 

「――アイリス殿!」

 

すぐ間近で浴びせられる鋭い声に、ゆっくりとアイリスは瞼を開けた。

全身が滝のような汗を掻き、寝台の中がじっとりと湿っているのがわかる。普段はほとんど汗を掻かないものだから、寝汗にしたって異常な量だった。

でも、その汗を気持ち悪く感じない。むしろ、清々しかった。

 

それが目に見える形で、自分の中に巣食っていたものが体の外に追い出された証拠であると、そんな風に思われたからだ。

 

「よく、よく頑張ったモイ。強い娘だモイ……!」

 

「センセイ……」

 

傍らでアイリスの手を握り、必死に呼びかけていたリネックが声を震わせている。

ウィテカーが取り寄せた貴重な薬草を使い、『狂戦病』の特効薬を煎じた彼は、アイリスが病魔と闘う間、ずっとそうしてくれていたのだろう。

 

あるいは病魔との戦いに、アイリスの体の方が耐えられないかもしれない。

もしそうなればと、決死の覚悟で、懸命に。

 

「でも、戻ってこれましたよ、センセイ」

 

「立派モイ!本当に、本当に……」

 

「……センセイの方が泣くなんて、変ですよ」

 

そのつぶらな瞳から涙をこぼすリネックに、アイリスは力なく笑った。

だが、この笑みこそ力ないものだが、すぐにまた力は湧き上がってくる。それも、これまでアイリスが体験したことのなかったような、力が。

その、今まで足りなかった生きる力が戻ってきた感覚が、ある。

だから――、

 

「わたし、閣下にお会いしたいです。――伝えたいことが、あるので」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「か、く……ッ」

 

血を吐くような苦鳴をこぼし、ギルデオ・ムジークの手から『陽剣』が落ちる。

炎のように眩く、血のように赤いヴォラキア帝国の宝剣は、甲高い音を床の上で立てる前に煙のように消失した。

消えた『陽剣』はもう二度と、ギルデオの手の中には戻らない。

 

「ここまでだ」

 

膝を落としたギルデオの前で、消えた宝剣と同じものを手にしたユーガルド。

三度と『陽剣』同士を合わせ、剣戟を交わせたのはギルデオの矜持が為せる技だ。痛みと苦しみを堪えた剣撃は、それでも相手を上回ろうという気概があった。

そのギルデオの執念さえも、ユーガルドの茨は縛り付けて逃がさなかったのだ。

 

「ユーガルド……」

 

自分の胸を強く掴み、絶え間なく押し寄せる痛みにギルデオは喘いでいる。それでも、ヴォラキア皇族の一人――最後の二人の片方として、顔と瞳は負けない。

その称賛に値する精神力と、長年『選帝の儀』の最有力とみなされ、評判通りどころかそれ以上の力を発揮したギルデオに敬意を表す。

 

「見事であった、兄上」

 

「――ふん」

 

苦痛の中で唇を歪め、ギルデオはユーガルドと嘲笑うでも負け惜しむでもなく、強壮で勇猛たる生き方を曲げずに雄々しく笑った。

多くを語らないギルデオの覇気に頷き、ユーガルドが『陽剣』を一閃――兄のたくましい首が斬り飛ばされ、その場にどうと体は横倒しになった。

 

ギルデオの亡骸は燃え上がりはしない。

『陽剣』の焔は燃やしたいものを燃やし尽くすもので、ギルデオはそれに当たらない。

無論、ギルデオの死亡確認のためにも亡骸は残す必要があったが、ユーガルドがギルデオに払った敬意は、そうした事情とは無関係のものだった。

いずれにせよ――、

 

「――終わった」

 

ユーガルドと、亡骸となったギルデオ。

それ以外の、ギルデオを守るために立ちはだかったムジーク家の兵たちも、ユーガルドがここへ辿り着く道中で倒れ伏している。

籠城するギルデオの陣営を囲み、大広間へ追い込んで、そしてユーガルドとギルデオの一騎打ちで以て、決着をさせた。

 

――最後の決着だけは、自分の手で付けなければならなかった。

 

「――聞こえているか、ウィテカー」

 

『はい、問題なく。閣下、こうしてご連絡いただけたということは……』

 

「そうだ。――ギルデオ・ムジークを討ち取った。余らの勝利だ」

 

『――――』

 

懐から取り出した『対話鏡』を起動し、決着の報告を固唾を呑んで待っていたウィテカーへとそう告げる。

すると、何事にも反応の早いウィテカーが押し黙り、沈黙した。

それが物珍しく思われ、ユーガルドは片眉を上げ、

 

「ウィテカー?伝えた通り、余らの勝利だ。すぐに城を……」

 

『――謹んでお祝い申し上げます、ユーガルド・ヴォラキア皇帝閣下』

 

「――――」

 

まるで意趣返しされたように、今度はユーガルドの方が押し黙る番だった。

鏡面に映し出されたウィテカーは、その胸に手を当てて深々と一礼している。それがこれまで以上の敬意を込めた最敬礼と見取り、ユーガルドは小さく息をつく。

 

そう、そうだ。

ウィテカーに言われるまで、確かな実感のないままだったが――ギルデオ・ムジークは最後の敵であり、これで生き残った皇位継承権を持つ皇子はただ一人。

すなわち、ユーガルドこそが『選帝の儀』の勝者だ。

 

「ユーガルド・ヴォラキア、か」

 

『第六十一代皇帝となります。お力添えできた身として、僕も鼻が高い』

 

「ウィテカー・ゴルダリオ、そなたも大儀であった。しかし……」

 

『しかし?』

 

「最初に祝われるのであれば、我が星の口から聞きたかったものだ」

 

そう素直な本心を口にすると、ウィテカーがきょとんとしたあと、笑い出す。

彼が怒り出してもおかしくない暴言だったと反省するところだが、そんなユーガルドにウィテカーは何とか笑いを堪え、

 

『ははは、面白い御方だ、本当に。その正直すぎるご意見も慣れると耳心地がいいものですね。そんな閣下にお伝えしたいことが』

 

「なんだ?祝辞以外に何がある?」

 

『それはもちろん――『どらまてぃっく』な贈り物を用意しましたとも』

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

ウィテカー・ゴルダリオの語る『どらまてぃっく』が何なのか、戴冠後にユーガルド・ヴォラキアとなるユーガルド・エルカンティにはわかっていない。

ただ、有能で替えの利かない相談役であるウィテカーが大事にしている価値観で、できるなら理解したいとユーガルドも考えていた。

 

その、ウィテカーの『どらまてぃっく』が、初めてわかったかもしれない。

 

「――――」

 

ムジーク家の城を出て、広く広く、無人となった平野にユーガルドが立つ。

城を背にして立ったユーガルドの視界、敵も味方もいなくなったその場所で、はるか遠方に一台の牛車と、そこから降り立つ小さな人影が見えた。

その小さな、陽炎のようにぼやけて見える人影が誰なのか、一目でわかる。

 

「――我が星」

 

屋敷で療養している身、『対話鏡』で語らうことを拒み、『選帝の儀』へと注力する数ヶ月、閉じた瞼の裏側でしか会えなかった女――アイリスが、いる。

無人の平野も、彼女を届ける牛車も、手配したのはウィテカーか。

もしもユーガルドがギルデオに敗れていたなら、敵兵だらけの危険な場所にアイリスを近付けたことになるが、そんな当然の危機感も吹き飛んだ。

 

青いドレスを纏い、亜麻色の髪を一つにまとめ、心持ち背筋を正したアイリス、彼女も顔をこちらに向けて、同じぐらいぼやけたユーガルドを視界に捉えた。

その、美しい瞳が微かに潤むのがわかり、ユーガルドは走り出した。

 

地面を蹴り、一歩一歩をもどかしく、ユーガルドはアイリスの下へ走る。

アイリスもまた、駆け寄ってくるユーガルドを待てないと、こちらへ走り出した。

 

「――――」

 

一瞬、アイリスの身を案じる声を上げようとしたが、それは徐々にはっきりと見えてくる彼女の表情、アイリスの光り輝かんばかりの笑顔に打ち消される。

熱に浮かされ、倒れた不安などないかのようなアイリスの姿に、ユーガルドはそれが彼女の答えだと受け止め、より地面を蹴る速度を強めた。

そして、二人の距離が徐々に徐々に、徐々に徐々に徐々に近付き――、

 

「我が星……アイリス!」

 

はっきりと、アイリスの顔が見える距離でユーガルドは高らかに叫んだ。

叫んで、アイリスの手を――否、正面から体を抱きしめようと心が決める。呼ばれたアイリスが微かに目を見張り、それから、彼女の足取りが少しずつ緩む。

この距離だ。いきなり走るのは辛い。もどかしくはあるが構わない。ユーガルドがその分を自分から詰めればいい。

 

そうやって、気持ちの逸るままに、ユーガルドはアイリスの下に――、

 

「――アイリス?」

 

息を弾ませ、アイリスへと走ったユーガルドの表情が不意に曇る。

それは、自分からも距離を詰めるために走り、やがて歩くような速度になったアイリスが足を止めてしまったからだ。

無理をしすぎたのか、体力の限界か、ユーガルドの眼はアイリスをつぶさに見る。

そして、そのいずれでもないと理解する。

 

「――ぁ」

 

アイリスは、自分の胸に手を当てて、痛みに喘ぐような息をこぼして膝をついたのだ。

何があったのか、彼女の身に起こった出来事が手に取るようにわかる。――何故なら、アイリスの浮かべている表情は、ユーガルドにとって見慣れたものだった。

 

「――ウィテカー!すぐに人を寄越せ!」

 

『――――』

 

取り出した『対話鏡』の鏡面を叩いて、ユーガルドは生涯で最も鋭い声を発した。

今、呼び出されるとは思っていなかっただろう鏡の向こうの反応は遅い。それを待てぬとばかりに、ユーガルドは「ウィテカー!」と何度も呼んだ。

 

いつしか、ユーガルドも足を止めて、アイリスとの距離をそれ以上詰めない。

詰められなかった。

だって――、

 

「余はこれ以上、アイリスに……我が星に、近付くことはできぬ」

 

ユーガルド・エルカンティは『選帝の儀』に勝利し、アイリスに誓った帝位を確かにこの手にした。

 

――その玉座の代償に、この世で最も美しい星と触れ合う資格を喪失して。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

独りではなくなったはずの王は、独りではなくせたはずの少女との時間を奪われた。

茨の縛めはついに少女の心の臓さえ縛り、二人の逢瀬は妨げられる。

 

兄弟姉妹を斬り倒し、玉座を得たはずの独りの王。

自らの想いを自覚して、王へと告げるはずだった一人の少女。

 

独りと一人、触れ合えぬまま剣狼の国は史実を刻んでいく。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――『狂戦病』。

 

それはかつて、『魔女』が世界中で猛威を振るった時代に、ヴォラキア帝国で意図的に広められたおぞましい病の名称だ。

当時から変わらぬ鉄血の掟を奉じていたヴォラキアで、今よりもさらに人の命が軽く扱われていた時代、戦場には恐怖を知らない勇猛な戦士が求められていた。

『狂戦病』は、その戦士を作り出すために、あえて作り出された病だ。

 

その病は罹患した段階で患者を篩にかけ、生死の境を超えられるかを試す。そうして生き残った患者に発現する症状こそが、『狂戦病』と呼ばれる所以だ。

『狂戦病』の患者は、一定以上の強さの痛みを脳が感じ取れなくなる。

 

戦場で人を臆病にするのは死への恐怖だが、その入り口は苦痛にある。すなわち、苦痛を遮断することは、死の瞬間まで死を忘れさせる効果を生むのだ。

それ故に、『狂戦病』にかかった存在はそれこそ熱に浮かされたように、どれほどの深手を負おうと落命するまで暴れ続けることができる。

 

「そのため、魔女戦争の終わった時代から徐々に廃れ、今ではほとんど記録も残っていないような病となっていたモイ」

 

「――――」

 

「アイリス殿に発症したのは、先祖からの遺伝だと考えられるモイ。それがアイリス殿を何年にもわたって苦しめていて、このほど、手に入った薬草を煎じた薬で根治に成功したということモイよ」

 

「――――」

 

「……それが、アイリス殿を閣下から遠ざける結果になってしまったモイ」

 

寝台の脇に座り、事の次第を説明するリネック。

そのリネックの言葉を聞きながら、寝台に寝そべったアイリスは自分の胸に触れ、呆然とした顔で天井を見上げていた。

 

場所はムジーク家の城で、城主を失ったその場所はエルカンティ軍に接収され、現在はアイリスを含め、エルカンティ家の関係者が利用している。

そしてこの場所には、ユーガルドはすでにいない。――彼は帝都ルプガナへ向かい、戴冠式を済ませなければならない立場だ。

 

『選帝の儀』の勝者となり、第六十一代ヴォラキア皇帝の資格を得た、この帝国で最も尊ばれるべき人間であることを証明したものとして。

 

そのユーガルドの勝利を、アイリスは一番近くでねぎらわなくてはならなかったのに。

 

「~~っ」

 

ぐっと強く唇を噛んで、アイリスは腕で自分の目元を覆う。そうしないと、じわりと込み上げてくる涙で、そこにいてくれるリネックを責め立ててしまう。

あくまでリネックは、難病に苦しむアイリスを救うために、自分の持てる知識で全力で頑張ってくれたのだ。

それがまさか、こんな結果になろうだなんて誰に予想できる。

 

「――っ、すまなかったモイ、アイリス殿……!」

 

それでも、顔を覆ったアイリスの仕草にリネックは自分を責めてしまう。

深々と、リネックが頭を上げている気配を感じて、アイリスは首を横に振った。

 

「や、やめてください、センセイ。センセイは、謝らなきゃいけないようなこと、全然、全然してない、ですから……」

 

「しかしモイ……!」

 

「誰もわかりませんよ!わたしの、長年ずっとかかってた病気が理由で、閣下の茨が何ともなかっただなんて、誰にも。誰にもです」

 

そう、誰にも予想できなかったことだ。

みんながみんな、この『狂戦病』を取り巻く状況は善意によって作られた。強いて悪い人間を探せというなら、それは薬草を見つけ出してきたウィテカーでも、それを煎じて薬を作ったリネックでもない。

 

こんな病気にかかった、アイリスが悪いのだ。

 

「でも、病人じゃなかったら、わたし、閣下に会えなかったです」

 

「アイリス殿……」

 

「……夢、みたいな時間でした。わたしみたいな、片田舎の村娘が、閣下みたいな格好良くて背が高くて、帝国の皇子様によくしてもらって。しかも、その人はただの皇子じゃなく、皇帝にもなっちゃうんですよ。もう信じられない」

 

「――――」

 

「そんなに頑張ってもらって、そんなに頑張らせて、わたし、全部台無しにしました」

 

あの丘の上でユーガルドと出会い、星空の下で言葉を交わしたことから始まった二人の関係は、アイリスという存在が何もかも壊してしまった。

もう、ユーガルドの顔を見て、ユーガルドの体に触れて、ユーガルドの声で直接、アイリスの名前を呼んでもらい、触れてもらい、見つめてもらうことはできない。

 

「わたし……なんて、ひどい女なんでしょう」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「――――」

 

誰もいない空っぽの玉座の間で、ユーガルドはヴォラキア国旗を眺めていた。

玉座の裏、部屋の高い天井から下げられたそれには、剣に貫かれた狼というヴォラキア帝国の国紋が刻まれ、帝国民の高潔さと矜持の証明としてはためいている。

その国旗に刻まれた『剣狼』こそがヴォラキア帝国の皇帝に求められる資質であるというのなら、ユーガルドは『剣狼』であるのだろうか。

 

精強たれと、そう強く戒められる帝国民たちの頂点の資格が、自分にあるのか。

 

「などと言えば、ギルデオ兄上に呪われようよ」

 

精力的に野心的に、自らの理想を実現するために帝位を求めたギルデオ。

ギルデオだけではない。此度の『選帝の儀』に参加する資格を有した皇子は二百十二名――戦うことを選んだものも、選べなかったものも、いずれの命をも礎に、ユーガルドはこうして帝都ルプガナの水晶宮で、玉座に座る資格を得たのだ。

 

「――――」

 

足下、血のように赤い絨毯は、実際の血を染み込ませていなくとも、ユーガルドの二百十一人の兄弟たちと、そのために命を捧げたものたちの血が染み込んでいる。

それを踏みしめ、ユーガルドは堂々と、誰もいない場所で玉座に腰を下ろした。

 

「『狂戦病』……」

 

玉座の上、そうこぼすユーガルドの手には一枚の書状がある。

それは鏑矢で届けられた矢文の文章であり、記されていたのは倒れたアイリスの病状の詳細とその治療法、加えて彼女の身に起こった変化の理由だ。

端的に言えば、アイリスはずっと自覚のない難病を抱えていて、その難病がユーガルドの茨の縛めから彼女を守り続けていた。しかし、どのような働きをしようと病は病、放置すれば命に関わるそれを治療し、アイリスは長年の病理から解放された。

その代償に、茨の縛めから逃れる術を失ったと。

 

「――我が星」

 

苦痛に喘ぎ、触れ合うことさえできなかったアイリスの姿が思い出され、ユーガルドは自分の眉間を指で揉み、静かに彼女の安寧を祈った。

書状にはムジーク家の城で養生する彼女がすでに安定し、『狂戦病』の後遺症もなく、快方へ向かっていることがしっかりと書かれている。

それでも、彼女が味わった苦痛の記憶が少しでも早く薄れるよう、切に願った。

 

――もう、二度と、ユーガルドはアイリスと触れ合えることはないだろう。

 

あの亜麻色の髪を指で梳き、赤らむ頬を掌で撫で、恥ずかしげにユーガルドを見つめる瞼に口付けし、細く愛おしい体を抱きしめることもできない。

だが――、

 

「そなたが心安らかに過ごせるときが作れれば、それでよい」

 

それが、ユーガルド・エルカンティが『選帝の儀』へ挑んだ最初の理由だ。

 

故郷の村を野盗に襲われ、家族を殺されたアイリス。その仇である相手にさえ助命を嘆願する慈悲を示す彼女は、ユーガルド亡き後も鉄血の掟の尊ばれるヴォラキアで生きていくことになる。――その、アイリスが容易く踏み躙られない環境を、ユーガルド自身の手でどうにかして変えなくてはならなかった。

 

そのために、ユーガルドは『選帝の儀』に勝利し、皇帝になることを選んだのだ。

アイリスを皇妃に迎え、彼女と同じ時間を共有し、末永く暮らす――それはあくまで、その最初の願いに付随した、ユーガルド自身の欲でしかない。

そんなものは、アイリスを苦しませてまで優先するものではないのだ。

 

「余は、十分に恵まれた。――あとは、恵まれたものに見合う働きをするだけだ」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「ふざけてんじゃねえぞぉ!」

 

力一杯に振られた腕が、軍議のために使われる長机を木端微塵に破壊する。

天幕の中に散らばっていく木片、それを少なからず浴びせられ、ウィテカーは白い手巾で口元を覆いながら、細い目の眉を顰めた。

 

「誰もふざけてなんてませんよ。落ち着いてください」

 

「テメエ、これが落ち着いてられるか!領主野郎が、ようやっと皇帝野郎になれるってとこでこんな……こんな!」

 

そう声を荒々しく震わせ、金色の瞳の瞳孔を細めたのは怒れるヴォルカスだ。

そのヴォルカスの荒れようの原因、彼が怒り狂っている理由に、ウィテカーは顔の前で両手をすり合わせる。

 

「意外だなぁ」

 

「あぁ?何がだ?何が意外だって……」

 

「だってそうでしょう?ヴォルカス殿からすれば、これで閣下はもうアイリス様に近付けなくなった。アイリス様を想うあなたにすれば――」

 

「――黙れ」

 

底冷えする声が発された直後、ヴォルカスの獣爪がウィテカーの首に宛がわれていた。

まさしく、瞬きの速度とでもいうべき早業だった。護身術さえ修めていないウィテカーでは、怒らせた帝国最高峰の実力者の動きを目で追うことすらできない。

それでも、宛がった獣爪でウィテカーの首を抉らないだけの理性が彼にはあった。

 

「オレは、あの女に借りがある。でかいでかい借りがだ。それだけだ」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

「テメエ……」

 

「――おやめになってください!」

 

刃物のような爪に命を預けたまま、ウィテカーがヴォルカスに挑発的にする。と、二人の間で高まりかけた剣呑な気配を、高い女性の声が強く窘めた。

それはこの場に居合わせ、今の荒っぽいやり取りも見ていたテリオラだ。

 

「ヴォルカス様、落ち着いてください。短気を起こしてはいけませんわ。お兄様は、わかっていて短気を起こさせようとしないでください」

 

「チッ」

 

テリオラの言葉に、舌打ちするヴォルカスがウィテカーを突き飛ばす。「おとと」と後ろに下がったウィテカーも、妹の厳しい視線には両手を上げるしかなかった。

そうして二人が離れたのを見ると、テリオラは大きく嘆息したあとで、

 

「目下、一番お辛いのはユーガルド閣下ですわ。『選帝の儀』に勝ち残り、あとは戴冠式さえ終えれば皇帝を名乗れますのに……」

 

「シャトランジ盤で言うところの決め手……シャッツボートをかける直前で、こんな落とし穴に嵌まることがあるとは」

 

「他人事みてえに言いやがる。元はと言えば、テメエが差し入れた草が理由で、アイリスも領主野郎もあんなことに……」

 

「なら、アイリス様の病気を見逃せばよかったと?確かにあなたの言う通り、アイリス様が病でお隠れになられるまで、閣下とお二人で穏やかに過ごしてもらうというのもありだったかもしれませんね」

 

「お兄様――!」

 

行き過ぎた兄の発言に、テリオラが険しい目と声で糾弾する。刹那、テリオラが声を上げるのが遅ければ、ヴォルカスの爪がウィテカーの首を刎ねたかもしれない。

そのぐらい、一線を越えたというべき暴言だった。

 

「滅多なことを言わないでくださいまし。……ヴォルカス様も、アイリス様のご病気のことでお兄様を責めるのは筋違いですわ」

 

「だったら……だったらどうしろってんだ!」

 

怒りに任せ、ヴォルカスが牙を軋らせて頭を抱える。

そのヴォルカスの血を吐くような叫びに、悲しいかな、テリオラは答えを持たない。あるいは帝国の誰も、その答えは持っていないかもしれない。

 

「お兄様……」

 

「情けない顔と声をするな、テリオラ。我が家の人間として背筋を正すんだ。――なんであれ、『選帝の儀』は終わってしまった。まずは粛々と戴冠式の用意だよ」

 

「戴冠式の用意……ですが、ユーガルド閣下は」

 

「立っていただかなくちゃ困る。遊びじゃないんだ。それは閣下もおわかりだよ」

 

ユーガルドとアイリスの問題を余所に、ウィテカーは進めるべき式典の話題に触れる。

ウィテカーの言う通り、『選帝の儀』が終わってしまった以上、いつまでも帝位を空のままにしておくことはできない。皇帝の不在は隣接する親竜王国や都市国家への無防備を意味する。だからこそ、『選帝の儀』の決着は急がれたのだ。

 

「ヴォルカス殿、僕と妹は式の準備を進める。あなたは……」

 

「オレは、アイリスのところにいく。戦いが終わっちまったここじゃ役に立たねえ。それに……」

 

「それに?」

 

「『選帝の儀』が終わっても、誰かが悪さ働くってんなら一番手薄にできねえ奴だ」

 

そう言い置くと、立ち上がったヴォルカスは背中を丸め、天幕に頭を擦らないようにしながらのそのそと出ていく。

そのヴォルカスの丸めた背中に、テリオラが「ヴォルカス様」と呼びかけ、

 

「どうか、アイリス様に……その」

 

「ハン、オレもテメエも、アイツに言えることなんてねえだろ」

 

「――。お体を大事にと」

 

図星を突かれ、息を詰めたテリオラはそう言うことしかできなかった。

そのテリオラの欺瞞に何も答えず、ヴォルカスが天幕を出ていくと、その場にはゴルダリオ家の兄妹だけが残される。

 

「しかし、実際、参ってしまったな。まさか、アイリス様の『狂戦病』を治したのがこんな形で裏目に出るとは」

 

「そんな……このようなこと、誰にも予想できませんもの。お兄様がご自分を責めるようなことは……」

 

「そうだね。――誰にも予想できなかったね」

 

「……お兄様?」

 

顔の前で両手をすり合わせ、そう答えたウィテカーにテリオラは違和感を抱いた。

どこか含むところを感じさせた発言、それが一度引っかかると、テリオラはその前のウィテカーが「裏目に出た」と言ったことに思い至った。

裏目に出るというのは、何らかの結果を出すために行動したということだ。

 

アイリスの『狂戦病』が治療され、彼女はユーガルドの茨の縛めから逃れられなくなった。だが、起こった出来事はそれだけではない。

 

「――ユーガルド閣下の『茨の呪い』が、その範囲を拡大するとは」

 

当てが外れたと言わんばかりのウィテカー。

その兄の言葉が示しているのは、ユーガルドとアイリスの再会が叶わなかった直後、『茨の王』たる彼に起こった異変――『茨の呪い』の拡大だ。

 

これまで、ユーガルドの『茨の呪い』は百メートル圏内が大雑把な影響範囲だった。これも日によって多少の誤差があったのだが、それが激変した。

呪いの影響範囲は一気に数百メートルまで拡大した挙句、ついには『対話鏡』さえも貫通し、物理的な距離と無関係に心の臓を縛めるようになったのだ。

 

「おかげで、閣下のためにばら撒いた『対話鏡』も丸っと無意味に。もしも呪いの効果が変わらないままなら、魔具を集めたのは無意味になるな」

 

「無意味、ということはないでしょう。実際にちゃんと、『選帝の儀』においては役立ちましたもの。閣下の呪いも、このままとは限りませんし……」

 

「我が家の人間ともあろうものが、未来に希望的観測を交えて語るのかい?」

 

「――――」

 

「呪いが強まったんだ。ますます強まる想像はできても、弱くなるとかいずれ消えるなんて想像は僕にはできないな。――閣下は、孤独を深めるよ」

 

ウィテカーの確信めいた静かな声に、テリオラは反論を封じられた。

兄の言葉は正しい。テリオラも本心ではわかっている。だが、それを認めてしまったらあまりにも、あまりにもユーガルドに救いがなさすぎるではないか。

 

『対話鏡』による遠隔手段の会話も遮断され、頼みの綱のアイリスも近付けなくなってしまった今、ユーガルドは本当に、独りだ。

 

「呪いは強くなり、孤独を深める、か。そうか、そうだな……」

 

ぎゅっと、テリオラが自分の手を強く握る傍ら、手をすり合わせる動きを止めて、ウィテカーがぼそりとそう呟く。糸のように細い目が微かに開かれ、妹にも滅多に見せない琥珀色の瞳で世界を、あるいは目には見えないものを見ようとするように。

 

「――――」

 

「お兄様?」

 

「――。ああ、いや、すまない。とにかく、僕たちは戴冠式の用意だ。閣下とのやり取りは矢文……昔ながらの手段に頼るしかないけど、進めよう。皆を集めてくれ」

 

「ええ、わかりましたわ」

 

肩をすくめ、いつもの調子でそう言ったウィテカーに頷き、テリオラはその場を辞す。

不測の事態においても、足を止めずに次の指針を立てられるのがウィテカーの美徳だ。普段から、テリオラは兄のその決断力に助けられている。――普段なら。

 

ただ、このときばかりはテリオラの胸中に、ささやかな疑念が生じていた。

 

「裏目に出た、と」

 

やはり、何らかの成果を求めてアイリスの『狂戦病』を治療した疑惑が消えない。それがユーガルドとアイリスのためを思ってのことなら、いい。

だが、もしもそうでないとしたら、それは。

 

最後の指示の寸前、独り言のように動いたウィテカーの唇。

悲しいかな、音にならなかったそれが、ゴルダリオ家の娘であるテリオラには読み取れてしまった。ウィテカーは無音で、こう呟いたのだ。

 

『今、何が一番『どらまてぃっく』な展開だろう』と。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――戴冠式の日が近い。

 

ゆっくりゆっくりと日にちは進み、『選帝の儀』が終わった帝国は、空の玉座に新たな皇帝が座るときを今か今かと待ち望んでいる。

その期待を裏切れない。裏切る理由もない。裏切らせられる正当性も、ない。

 

アイリスはムジーク家の城中で、肝心なときを無為に待ち続けていた。

 

「体の調子は、今までにないくらい一番いいのに」

 

宛がわれた豪奢な一室、大きな部屋に相応しい大きな窓辺に立ちながら、快晴の空を憎々しい気持ちでアイリスは見つめる。

事実、体の調子はすこぶるいい。『狂戦病』を抱えていたと知らなかった頃、アイリスは何もしていないときでも、ふとした瞬間に疲れを覚える重石を体の中に抱えていた気がしたが、今ではそれがすっかり消えている。

それなのに、体の中から消えたはずの重石は、今は心の奥底に移ってしまった。

 

養生の名目で城に残されているアイリスだが、養生とは何だろうか。

体はどこも悪くないのに、一人で過ごすには大きすぎてまるで落ち着かない部屋で、いったいどうすることが求められているのか、わからない。

エルカンティ家の屋敷でも、アイリスは同じことを言ってユーガルドを困らせた。

それでもまだ、あのときはユーガルドの身の回りの世話をするという、自分にしかできないなんて言い訳の立つ役目を見つけ出せた。

 

「でも、だったら今は……?」

 

こんな自分に、何ができるだろうか――。

 

「――よお、悲劇のお姫様ぶってるじゃねえか、テメエ」

 

「――っ」

 

ふと、聞こえた声に弾かれたように顔を上げ、アイリスは目を見開いた。

眼前の大窓、その窓枠に鋭い獣爪を備えた手が引っかかり、黒い巨体を引き上げて見知った顔が視界に飛び込んでくる。

それは――、

 

「ヴォル、カス……?」

 

「オレ以外に、誰がテメエの部屋に窓から入ってくんだよ」

 

「……そんなの、自慢しないでください」

 

不貞腐れたような顔で悪態をつき、乗り込んでくる相手――ヴォルカスのために、アイリスがさっと横にどく。

そのまま、ヴォルカスは平然と部屋の中に上がり込み、それから横によけたアイリスの方をちらと見ると、その肩を掴んで振り向かせた。

 

「きゃっ、何を……」

 

「目が赤ぇ。テメエ、さてはグズグズ泣いてやがったな?」

 

「う……そ、そんなの、あなたに関係ないじゃないですか」

 

「あぁ?オレが関係ねえわけねえだろ」

 

ぐいっと、顔を近付けて見下ろしてくるヴォルカス。そのヴォルカスの恫喝するような低い声に、アイリスは力なく目を逸らした。

恫喝に怯えたのではない。ヴォルカスのこれに敵意も悪気もないことはわかっている。

アイリスが目を逸らしたのは、彼の瞳が真っ直ぐ自分を見ていて、その金瞳に情けなく弱々しい自分の顔が映り込んでいたからだ。

 

「……ごめんなさい。あなたが関係ないわけ、ありません。八つ当たりです」

 

「言われなくてもわかってんだよ、バーカ。――悪かった」

 

「え?」

 

「オレがあと少し早く、領主野郎の最後の兄弟を殺せてれば、テメエにアイツの顔見て声聞かせて祝わせてやれた。だからだ」

 

アイリスの肩を掴んだまま、ヴォルカスがそう言って首を下に向ける。一瞬、アイリスは呆気に取られ、それが頭を下げているのだと気付き、より呆気に取られた。

ヴォルカスがこうして、アイリスに頭を下げて謝罪することがあるなんて、と。

 

「なんだ、テメエ、そのツラは」

 

「お、驚いてたんですよ。……わたしの知らない間に、色々あったんですよね」

 

「色々なんてねえよ!一番でけえのはテメエとアイツの――」

 

「ヴォルカス、あなたのせいなんかじゃありませんよ」

 

「――――」

 

「わかるんです。たぶん、時間が多少、早いとか遅いとかで違うことになった結果じゃないんじゃないかって、そう」

 

ユーガルドの茨と、アイリスの『狂戦病』。

これは言ってしまえば、二人が出会い、言葉を交わし、触れ合えた切っ掛けと理由となったものがもたらした結果で、そこにヴォルカスの落ち度なんてない。

 

「ヴォルカス、どうしてここに?あなたは、閣下の軍で一番の戦士でしょう?」

 

「……もう領主野郎の敵はいねえんだ。オレがアイツのとこにいる理由もねえ。それに」

 

「それに?」

 

「テメエがどうしてるか気になった。オレは、テメエに借りがあるから」

 

「そんなの、もうとっくに……」

 

ぼそぼそと早口に、お決まりの文句を言ったヴォルカスにアイリスは目尻を下げる。

ヴォルカスが延々と掲げ続けるアイリスへの借り――それを完済した、なんて表現するのは難しい。両親の仇だ。何をすれば返されたことになるのかわからない。

でも、ヴォルカスは命懸けで、全身全霊で、アイリスが始めさせてしまったユーガルドの戦いに付き合い、彼が皇帝になるまで力になり続けた。

その結果では、ダメだろうか。それでヴォルカスを許しては、ダメだろうか。

 

「――いいや、ちっとも返せちゃいねえ」

 

「――――」

 

そう考えるアイリスの心を、他ならぬヴォルカスに真っ向から否定された。

ヴォルカスはその鋭い牙を噛み鳴らし、アイリスの肩を掴んだまま、その、彼の力なら容易く握り潰せるアイリスの細い体に触れたまま、続ける。

 

「言っただろうが。オレはテメエに借りがある。一生かけても返せねえような、でけえでけえ借りなんだ。だから……」

 

「ヴォルカス……」

 

「だからテメエは一生、オレをこき使っていいんだ。テメエがしたいことのために、オレを何でも使っていいんだ、アイリス……!」

 

歯を食い縛り、ヴォルカスが血を吐くようにそう訴える。

そのヴォルカスの魂の叫びを聞かされ、アイリスは全身を稲妻に貫かれた。

そしてこれまで、ヴォルカスとの間に交わされてきた、貸し借りを互いに忘れないためのやり取りに込められていた、彼の本当の叫びを知る。

 

ヴォルカスは、アイリスが思うよりもずっとずっと、叫び続けていたのだと。

 

「オレは強ぇ。だが頭はよくねえ。テメエとアイツが、また前みたいにするためにどうすりゃいいのかわからねえ。わからねえから、テメエやセンセイで考えろ。考えて出た答えで、オレができることは何でもしてやる」

 

自分の頭が悪いと、ヴォルカスは勇敢に言い切る。

でも、そのヴォルカスの言葉に、アイリスはそれは間違っていると思った。

ヴォルカスは頭が悪くなんてない。頭が悪いのは自分の方だ。だから、目の前にある願いをはっきり読み解けるヴォルカスと違い、理屈をこねまわしている。

 

諦めたくない理由を探せるヴォルカスと違い、諦める理由ばかり探して。

もう、ユーガルドと会えないことに、自分で折り合いをつけようとして。

 

アイリスはあの優しい『茨の王』を、独りにしようとしていた。

 

「――ぁ」

 

はらりと、アイリスの瞳から涙がこぼれ、頬を伝った。

自分でも無意識の落涙に、アイリスは微かに息を詰める。――が、その直後だった。

 

首を伸ばしたヴォルカスが、頬を伝ったアイリスの涙を舐め取ったのだ。

 

「――――」

 

ざらりと、骨から肉をこそぎ取るための狼人の舌の感触が頬を撫でた。

危うく、顔を頭の骨から引っぺがされるかと思うような舐められ方をして、その感触に驚いたあとで、行為自体にも目を白黒させてしまう。

 

「あ、あ、あ、あなた、今……」

 

「あぁ?テメエが泣くからだろうが。群れの大人がガキをあやすのは当たり前だ」

 

「誰が大人で誰が子どもですか!本当に、本当にあなたという人は……っ」

 

けろっと大したことない顔をするヴォルカスに、アイリスは顔を赤くしながら、舐められた頬を掌で拭い、それからふっと肩の力を抜いた。

それを確かめたように、ヴォルカスの手もアイリスの肩を離れていく。

本当に、どこまでも、この狼人は。

 

「本当に、何でも手伝ってくれますか?」

 

「言ってんだろ、テメエには――」

 

「でけえ借りがある、ですよね」

 

「ハン」

 

小さく鼻を鳴らし、ヴォルカスが口の端を歪めて笑った。そのヴォルカスの笑みに、アイリスも弱々しくはあるが、それでも微笑んで応える。

何も状況が変わったわけではない。アイリスの『狂戦病』が癒えて、ユーガルドの茨の縛めから逃れられなくなったことはそのままだ。

それでも、全部を投げ出すことなんてできないのだと、そう――。

 

「わたしは、閣下に伝えたいことがある……」

 

それを、このアイリスという存在丸々でぶつけて、彼の傍にいくのだ。

――そうアイリスが心を決めたときだった。

 

「――アイリス殿!大変だモイ!!」

 

「センセイ?」

 

叫ぶような声で、ノックも忘れてリネックが部屋に飛び込んでくる。血相を変えた彼は部屋の中、アイリスと、傍にいるヴォルカスの姿に「ヴォルカス!?」と目を見張る。

しかし、すぐに大きな鼻ごと頭をブンブンと左右に振り、

 

「今はそれよりも……アイリス殿、落ち着いて聞いてほしいモイ!」

 

「落ち着けも何も、センセイの方が落ち着いちゃいねえじゃねえか」

 

「ヴォルカス、いいですから。……センセイ、どうしたんですか?」

 

只事ならぬリネックの態度に、アイリスはヴォルカスを引き止め、そう尋ねる。

ただ、リネックの答えを聞く前に、嫌な予感がアイリスの胸を苛んだ。今しがた、前を向こうと決めたばかりのアイリスに、怖気を覚えさせる感覚が。

そしてその感覚は、悔しいことに間違いではなかった。

 

「――ウィテカー・ゴルダリオが謀反を起こしたモイ。帝都の、閣下がいらっしゃる離宮に火を放って、閣下を弑逆しようと目論んだモイ!」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

帝都ルプガナの水晶宮は、ヴォラキア帝国の技術と芸術性の粋を集めて作られた城であり、帝国のみならず、世界で最も美しい城と称される建物だ。

貴重な魔晶石をふんだんに使って作られた水晶宮は、その建立のための知識が失われてしまっているのもあり、現代では二度と同じものは作れない。

そのため――、

 

「戴冠式の用意の間、移ってもらっていた離宮で閣下を狙わせたんだ。あの水晶宮は替えの利かない、ヴォラキアの宝だからね」

 

「――。ユーガルド閣下も、替えの利かない御方ですわ」

 

「それはお前はそうだろうさ。一途に想っている殿方だ。世界で唯一の、替えの利かない完璧な相手に思えるだろう。でも、だったらなんで『選帝の儀』なんて開かれる?」

 

「――――」

 

「替えの利かない人間なんていないよ。ユーガルド・エルカンティ閣下ですら例外じゃない。お前も我が家の人間として、それがわかってると思ってたんだけどね」

 

そう、鉄格子越しにウィテカーに言われ、檻の中のテリオラは顔を伏せた。

無理やりに牢に押し込められたテリオラは、常の優美な身嗜みを喪失している。ドレスは裾が破れ、自慢の赤髪は乱れていて、化粧も崩れてしまった。

そしてそんなテリオラのことを、ウィテカーは冷たい表情で見下ろしている。

 

それはそうだろう。

なにせ、テリオラはウィテカーの一世一代の大勝負を邪魔したのだ。

 

「肉親の裏切りに遭うほど辛いことはない。お前は罪な女だよ、テリオラ」

 

「だとしたら、私も同じ気持ちですわよ、お兄様。ユーガルド閣下も、全幅の信頼を置いていた相手に裏切られ、さぞかし胸を痛められたことでしょう」

 

「閣下が胸を痛める?おいおい、今まで聞いた中で一番の冗句だ。物心ついたときから延々と茨に心臓を締め付けられてて、それでも痛みを知らない御方だ。臣下に裏切られた胸の痛みだって、感じるはずがないだろうに」

 

「お兄様……!」

 

鉄格子を掴み、その勢いで丁寧に整えられた爪が割れる。が、テリオラはそれに構わず、酷薄すぎるウィテカーを厳しく睨んだ。

そのテリオラの眼光に、ウィテカーは小さく肩をすくめる。

 

「現実を見ろ、テリオラ。閣下の『茨の呪い』は拡大の一途を辿る。もう、ヴォラキア帝国の帝位に就けておくのは不可能なんだよ。なら、代案がいる」

 

「それが御自分が皇帝になることですか!?玉座を盗み取った奸臣と、未来永劫に語られ続けるだけですわよ!」

 

「仕方ない。『選帝の儀』が終わり、代わりの皇族がいないんだ。これがギルデオ皇子が亡くなる前なら彼を立てられたが、それも叶わない。なら、ヴォラキアの習わしに従い、力ずくで帝位を奪ったものが次の皇帝となる」

 

「最初から……最初から、そのつもりだったのでしょう?」

 

「――――」

 

仕方のないことと、そうウィテカーは語って聞かせるが、テリオラは信じない。

何故なら、ウィテカーは「裏目に出た」と言ったのだ。ウィテカーは確かな意図を持って、アイリスの『狂戦病』を治療し、今の状況を作った。

いつからかはわからない。しかし、ウィテカーは望んでこの状況を。

 

「どうして……っ」

 

「それはこっちの台詞だよ、テリオラ。お前が暗殺の決行寸前で閣下を逃がしたから、余計なひと手間が生まれた。もっとも、あの方はどこへいこうと茨をばら撒いているから、探すのはそう難しいことじゃないけどね」

 

「――っ」

 

テリオラの抵抗は些細な障害だと、ウィテカーはそう言い残し、背を向ける。

その背中に食って掛かろうとしても、出てくるのはつまらない感情論ばかりで、テリオラにはウィテカーを翻意させる言葉を用意できなかった。

ただ、すすり泣くように言うだけだ。

 

「軽蔑します、お兄様……!」

 

「――――」

 

それに対する、ウィテカーの返事はなかった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――ウィテカー・ゴルダリオの謀反、その予兆にユーガルドはまるで気付かなかった。

 

それはウィテカーという男の周到さと抜け目のなさ、総じて能力の高さの表れであると言えるだろうが、そうなった要因にユーガルド自身の不甲斐なさは無縁ではない。

 

どんな言い訳をしようとも、ユーガルドには油断があった。

ヴォラキア皇帝としての戴冠を目前に、心は揺れ、平静ではなかった。大きな責任を背負うことへの重圧感と、本来あったはずの支えを失ったことの喪失感。

どれほど自分の心を鋼に偽装しようと、誤魔化し切れなかった隙間だ。

 

「テリオラの手引きがなければ今頃は、か」

 

離宮に火が放たれる寸前、テリオラは茨の縛めに苦しみながら、それでもユーガルドの下へ駆け付け、帝都からの逃亡を手助けした。

それがどれだけの苦痛の上で、どれだけの心痛に苛まれながらした決断か、ユーガルドには想像はできても、本当の意味でわかってやれない。

 

心の臓を縛められる痛みも、大切な肉親を裏切る痛みも、どちらも。

 

「手練れだな」

 

離宮から逃れ、ウィテカーの指示で追ってくるものたちから逃れ、人のいる場所から逃れることを選び続け、いつしかユーガルドは森の中にいた。

帝都の城壁の外にある森の中、足場の悪い道を駆け抜けるユーガルドは、自分を意識に留め置いている追っ手の存在を知覚している。

適切に、ユーガルドの茨の縛めの範囲外から追跡してくる相手は、おそらく帝国でも最上位の実力者――先代皇帝であるラドカイン・ヴォラキアが任命した、帝国最強の九人の戦士たる『九神将』だろうと当たりを付ける。

 

本来、『九神将』たちは先代皇帝の崩御と共に役目を解かれているはずだが、次の皇帝の戴冠を目前に帝都に呼び戻されていたのだろう。

それを、ウィテカーが従え、ユーガルドを始末するための刺客とした。

 

「抜け目のないことだ。その有能さにたびたび救われたが、此度は厄介だな」

 

味方に付けなければ『選帝の儀』を勝ち抜けず、敵に取られれば戦いにならずに敗退を決される。そんな認識のゴルダリオ家だけに、敵に回ったときの厄介さには納得だ。

真に驚くべきは、この謀反が綿密に計画されたものではないだろうということ。

 

「ここまでのそなたの献身に嘘があったとは思わぬ」

 

ユーガルドの茨の変化、それを許容できなくなったが故の謀反。

ウィテカーのこれまでの働きと今の状況を照らし合わせ、ユーガルドはそう推測する。あるいはこれもユーガルドの判断違いで、ウィテカーはこの瞬間を虎視眈々と狙っていたのかもしれないが。

 

「それがそなたの、『どらまてぃっく』で間違いないのか?」

 

ユーガルドの理解できない、ウィテカーが大事にする価値観。

これもまた、それに則した行動であるのだろうか。それを起こした結果、妹であるテリオラとの間に意見違いが生じ、二人は。

 

「テリオラが無事であればいいが」

 

ユーガルドに協力した以上、テリオラとウィテカーの敵対は明らかだ。

離宮から抜け出す際、手引きしたテリオラは苦痛に脂汗を浮かべながら、それでも気丈にユーガルドを見送った。あのあと、彼女がウィテカーの手に落ちたのは間違いないだろうが、ウィテカーの冷徹さは妹にも向けられるだろうか。

 

わからない。考えても無駄かもしれない。

そもそも、どうしてユーガルドは逃げているのか。――ウィテカーの判断こそ、ヴォラキア帝国を守るため、合理的なものではないのか。

 

「――――」

 

生い茂る草を踏む足を止めて、ユーガルドは自分の手を見下ろした。

 

――『茨の王』に帝国の玉座は相応しくない。

それは他ならぬユーガルド自身が、自分の置かれた立場と境遇を鑑み、物事の分別がついた頃から動かざる結論として出していた答えだった。

 

アイリスの存在に、彼女の未来の安寧のために、ユーガルドはその結論を覆した。

しかし、『茨の王』の危険性が拡大し、その脅威が以前に比べてはるかに強大化した今、同じ問いかけに、ユーガルドは胸を張って同じ答えを出せるだろうか。

 

「むしろ、ウィテカーに下り、余の本懐を言って聞かせるか?」

 

ウィテカーに求めることは帝国の安定と、アイリスの生涯の安堵。ユーガルドに協力し、『選帝の儀』で類稀なる働きをした懲罰部隊への恩赦と、それを率いたヴォルカスに相応しい褒賞と地位を与えること。ユーガルドの逃亡に協力したテリオラを許し、彼女にも気概を加えないことだ。

エルカンティ家の取り潰しに関しては、ユーガルドの存在を完全に敗北で終わらせるために避けられないことだから、目をつぶるよりない。

それらの要求が満たされるのであれば――、

 

「――――」

 

この場で投降し、ウィテカーに下るのも吝かではない。

あるいは何らかの方法でウィテカーに約束させ、ユーガルドが自刃するかの決着だ。

それが最も、合理的で、正しい判断にも思えた。

 

「どれほど対策を練ろうと、今の余が玉座にあることは最善とは思えぬ」

 

至極当然の、ユーガルド以外の誰もが気付いていたかもしれない答え。

それにようやく辿り着いて、ユーガルドは小さく息を吐いた。徒に帝国の治世を掻き乱して、ユーガルドは戴冠式を目前に全てを手放すことになる。

ヴォラキアの倣いではあるが、これでは代々のヴォラキア皇族の血をここで絶つために奮闘していたようで、あまりにも情けない。

それでも――、

 

「――我が星、そなたにさえ、幸があれば」

 

それが叶いさえすれば、ユーガルド・エルカンティのしてきた行いにも意味がある。

 

閉じた瞼の裏側、アイリスの笑顔が、怒った顔が、はにかむ顔が、浮かぶ。彼女の声が聞こえ、彼女の匂いを感じ、彼女の体温が思い出される。

克明に、克明に思い出された。

 

『選帝の儀』が始まってから離れ離れになり、『選帝の儀』を終えたときに触れ合う機会を逸し、一度の再会も叶わなかったアイリスが、こうも克明に。

 

「いいや、これはあまりにも――」

 

はっきりと、克明に感じ取れすぎている。

そう、ユーガルドが閉じた瞼を開いて、現実を認識したときだ。

 

「――閣下」

 

「――。馬鹿な」

 

聞こえるはずのない声、感じられるはずのない体温、目にできるはずのない顔。

それが、ユーガルドの魂が求めてやまない全てが、目の前に立っていた。

 

いるはずのないアイリスが、ユーガルドの手を取り、微笑んでいた。

 

「何故……何故、そなたがここに」

 

「変なこと言わないでください。閣下をお傍でお支えするのが、わたしの役目です」

 

「だが……だが!」

 

偽物ではない。偽りでも幻でもない。

ユーガルドの目の前で、本物のアイリスがそんな風に唇を尖らせる。その愛おしい仕草と声音と姿に、しかしユーガルドの頭の中で警鐘が鳴り響いた。

あっては、ならない、再会。いては、ならない、邂逅。

 

「なんという、無茶を……余の茨はそなたを」

 

縛め、苦しめ、遠ざけてしまう。

あるいはそれさえ覚悟で、テリオラがそうしたようにアイリスも駆け付けたのか。苦痛を懸命に堪え、気丈に笑みを作りながら、不甲斐ないユーガルドのために。

そう、ユーガルドの震える青い瞳がアイリスを見つめ――、

 

「わたしが、無理してるように見えますか?」

 

そう言って、柔らかく目尻を下げたアイリスの顔に、苦痛の色を見つけられない。

ユーガルドは愕然と、つぶさにアイリスを見て、彼女が指のささくれ一つでも隠していようものなら見つけ出すつもりで痛みを探す。――だが、ない。

アイリスはユーガルドに触れ合いながら、茨の縛めから再び逃れていた。

 

「何ゆえ、そなたは……」

 

「愛の力です」

 

「愛、などと……」

 

「信じられませんか?それとも、やっぱりわたしが閣下をどう思っているか、閣下はわかってくださっていませんか?」

 

「――――」

 

しっかりした声で言われ、そう問いかけられ、ユーガルドは口を閉ざす。

アイリスがユーガルドをどう思っているのか。その答えを、はっきりとアイリスから聞いたことはない。ユーガルドにも期待はある。あるが、確信ではない。

確信を持てるのは、嫌われてはいないということぐらいで――。

 

「わたし、閣下のことが好きです」

 

もどかしく、耐えかねたように、アイリスがそう告げて、ユーガルドの首に腕を回して引き寄せ、その唇を奪った。

 

「――――」

 

ユーガルドと、アイリスの唇が重なり合い、二人の存在が交差する。

言葉でも、行動でも、在り方でも、アイリスはユーガルドに自分の想いを示した。

では、ユーガルドは、どうすべきか。

 

「――我が星」

 

二人の唇が離れ、ほんのりと赤みを帯びた頬をしたアイリスを間近に、ユーガルドは彼女のことをはっきりとそう呼んだ。

呼ばれたアイリスが自分を見る。その瞳に、ユーガルドの顔が映り込む。――なんと現金にも、気力を取り戻した男の顔が、そこに。

そして――、

 

「――余は、皇帝となろう」

 

そう口にしたユーガルドの手が、空の鞘から真紅の『陽剣』を抜き放った。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「――大儀であった」

 

真紅の宝剣が一閃され、斜めに斬撃を浴びた体が一挙に燃え上がる。

全身を炎に包まれながら、それでもなお双剣の戦士は剣撃を放とうとしたが、灼熱の炎は男の命よりも先にその双剣を焼き尽くしていた。

そのまま、男の体は黒い消し炭へと変わり、塵となって消滅する。

 

それが最後の一人にして『九神将』筆頭たる、帝国最高峰の剣士の最期だった。

 

「やれ、やれ……とんでもない人だ、あなたは」

 

その壮絶な最期を見届けて、自分の味方の全員を失ったウィテカーは、苦痛で絶え絶えな呼吸をしながら、『陽剣』を手にしたユーガルドを見やる。

 

ウィテカー・ゴルダリオの起こした謀反、『盗帝』と称される覚悟で始めた彼の戦いは、こうしてユーガルドによる反撃で幕を下ろす。

一度は帝都を逃れたユーガルドが戻り、『陽剣』を片手に次々とウィテカーに与するものたちを打ち倒し、玉座の奪還を果たしたからだ。

 

「まさか、『九神将』まで全滅とは、規格外だなぁ」

 

「それを言い始めるならば、『九神将』を全員味方に付けたそなたの弁舌の方をこそ、余はそう称賛されるべきだと思うがな」

 

「そう難しいことでも、ないですよ。みんな、閣下が……『茨の王』が皇帝になることに異を唱えただけ、ですから」

 

「――。そうであろうな。そなたらの考えは正しい」

 

「いいえ?勝った閣下が正しくて、負けた僕たちは間違い。それが、この帝国の鉄血の掟ですよ」

 

自分の胸に手を当てて、薄目を開いたウィテカーが皮肉げに笑う。

その言葉にユーガルドは瞑目し、それがこの帝国の揺るぎない価値観であることを認め、ウィテカーが正しさを証明するために戦い、敗北と間違いを受け入れたと頷く。

 

「そなたを失うのは惜しい。何か言い残すことはあるか?」

 

「迂闊なことを……僕が心を入れ替えて尽くしますから、また閣下にお仕えさせてくださいって言ったらどうするんです」

 

「心から惜しく思うが、それは不可能だ」

 

「はは、そうです。それでこそ」

 

笑い、それからウィテカーは大きく息を吸い、吐いた。

その、数秒にも満たない一呼吸の間に、この賢い男は様々に頭を働かせ、

 

「まず、ゴルダリオ家は潰されることです。我が家の代々の家業は途絶えますが、『選帝の儀』が続く限り、また違う形でお約束が生まれるでしょう。僕に従った兵たちは、投降を呼びかければ従うはずです。それと、今の閣下との対話には役立ちませんが、『対話鏡』はそれなりに予備があるので使い方はお任せします。それと閣下が帝位に就かれたあとに進言したかったんですが、帝都の北部の水源の管理は徹底した方がいい。あれはそう遠くないうちに帝都を水浸しにしかねない」

 

「最後と思って次々と出てくるな。だが、委細承知した」

 

「よかった。ああそれと、テリオラのことですが……」

 

「テリオラは余を救った。余からテリオラに渡すものがあるとすれば、謝意であって刃ではない」

 

「――。もう一つだけ、伝えてもらえませんか」

 

テリオラを罰するつもりはないと言われ、ウィテカーが安堵する。その安堵の最後に付け加えられる一言、それが本命だったのだろうとユーガルドは目を細めた。

最後まで、本心を隠したがる男だと、そう思いながらのユーガルドに彼は、

 

「最初から、こうするつもりだったわけじゃなかったと」

 

「――。それでよいのか?」

 

「それで伝わります。テリオラは、賢い妹ですから」

 

その呟きに、初めてウィテカーの確かな感情が滲んで聞こえた。

それを感じ取り、ユーガルドは顎を引く。長く息を吐いて、ウィテカーはその場にゆっくりと片膝をつくと、頭を垂れて、ユーガルドに首を差し出した。

 

「我が家は歴史の陰に潜むゴルダリオ家……そのつもりが、帝国史に奸臣として名を遺すことになるとは、実に因果で『どらまてぃっく』なことだ」

 

「ウィテカー・ゴルダリオ、大儀であった。――ここまでの献身、褒めて遣わす」

 

首を差し出したウィテカーの表情は見えない。

だが、それが笑んでいただろうことを確信しながら、ユーガルドは宝剣を振るった。

 

――『盗帝』ウィテカー・ゴルダリオの謀反は、それで決着だった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

全ては瞬きのように刹那の思い出で、全てを焼き尽くす炎のように情熱的で、全てと引き換えにできるほど鮮烈で、全てを捧げた先の未来へ続く物語。

 

長きにわたり、人々の心に強い強い炎となって残り続ける、王と少女の物語。

その、綴られる物語の、綴られなかった史実を孕んだ古の物語、その結末である。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――帝都ルプガナの水晶宮、玉座の間。

 

赤い絨毯が敷き詰められ、建国の時代より波乱の帝国を見つめ続けてきた『剣狼』を掲げた国旗の見守る中、ユーガルド・ヴォラキアは第六十一代皇帝に即位した。

皇帝の証である王冠、それが少女の手からユーガルドの頭に被せられ、玉座に堂々と腰を下ろし、儀式は完遂される。

それを見届ける役目を果たしたアイリスは、精一杯手を打ち、ユーガルド・ヴォラキア皇帝の誕生を祝福した。

 

響き渡る拍手は、その場にいることのできるアイリス一人だけのもの。

ユーガルドとアイリスの二人しかいない玉座の間で、世界で最も寂しい戴冠式を執り行いながら、しかし、二人の表情に陰りはなかった。

 

「おめでとうございます、閣下」

 

「そうだな。めでたきことかはわからぬが、やり遂げた。――いや、ここからだ」

 

「――。はい」

 

ほんのりと眦に浮かんだ涙を拭い、アイリスがユーガルドに頷く。

大きな戦いを終えて、その後の苦しい戦いをも終えて、ユーガルドは玉座に座った。だがこれは語った通り、あくまで始まりでしかない。

 

ユーガルドが果たすと決め、今日までの原動力となった願いや計画は、この場所に座った今からようやく動かすことができるのだ。

そして、やろうと決めた様々なことの、一番最初に、ユーガルドは望む。

 

「我が星……いや、アイリス」

 

「はい、閣下」

 

「――そなたを、余の妻と迎えたい」

 

「――――」

 

「理由は百十四ほどある。一つずつ語ろう」

 

「そんなに説明はいらないです。……一番大きなものを、一個だけ教えてください」

 

淀みなく説明に入ろうとしたユーガルドは、アイリスのその言葉に瞬きする。

しかし、それも一瞬のことだ。

 

「そなたを愛している。故に、余の妻となってほしい」

 

「――はいっ」

 

じわりと、丸い瞳に涙が浮かび、アイリスがユーガルドの求愛にそう答える。その微笑みを見た瞬間、ユーガルドはアイリスの手を引いて、彼女を胸の中へ。

そしてその顎を持ち上げ、口付けを交わす。

 

それは誰も見ていない、独りの王と一人の少女の、想いの結実した瞬間。

微かな風にはためくヴォラキア帝国の国旗、剣に貫かれる狼だけがそれを見ていた。

そして――、

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

戴冠式が終わり、第六十一代皇帝ユーガルド・ヴォラキアが誕生した。

 

その式典の光景は誰にも共有されなかったが、即位の事実自体は即座に周囲に、帝都に、帝国全土に報じられ、此度の『選帝の儀』は完全な終結を迎えた。

『選帝の儀』に参加した皇子が最後の一人になり、即位のための戴冠式が行われる直前に起こった謀反――それをユーガルドが自ら制圧したことも、大きく喧伝された。

 

歴史の陰で活動し、最後には大々的な謀反者として名を遺すゴルダリオ家。

だが、もしもウィテカーが生きていたなら、謀反の事実をよりユーガルドの権威を高めるために利用しただろう。

きっと、これが正しいことなのだと、そう思える決着と言える。

 

無論、ユーガルドが無事に皇帝に即位できても問題は山積みだ。

相変わらず、ユーガルドの茨の力は衰えておらず、『対話鏡』が使えない状況も、数百メートル圏内に他者が近付けない状況も変わっていない。

そうした制限下でも、ユーガルドが皇帝として滞りなく政務を行えるよう、状況を整備していかなくてはならない。

皮肉にも、こうした物事で一番頼もしかったウィテカーがいなくなってしまったのは、ユーガルド政権にとって大きな痛手だったと言えよう。

 

しかし、ユーガルド政権で一番の問題は、ウィテカーの不在ではない。

それは――、

 

「ごほっ、えほっ」

 

自室に戻ったところで、アイリスは口元に手を当て、大きく咳き込んだ。

咳はしばらく止まらず、耐え切れずにその場に膝をついてしまう。そのまま何度も何度も咳き込み続け、数十秒も経ったところでようやく落ち着く。

落ち着いて、手を見る。――掌は、べったりと赤い血で汚されていた。

 

「アイリス殿、無理しすぎだモイ」

 

ふと、そう声をかけてくれたのは、傍らにしゃがみ込んだリネックだった。

咳が止まらず、膝をついたアイリスの背中を彼が撫でてくれていたのだ。その気遣いにも気付けなかったと、アイリスは何とか微笑を作り、

 

「だ、大丈夫です。無理なんて、全然、全然ですから」

 

「血まで吐いて、無理していないはそれこそ無理があるモイ!……やはり、こんな方法はやめるべきモイ。ユーガルド閣下よりも、アイリス殿の方が」

 

「本当に、無理じゃないんです、センセイ。あの人のためなら」

 

血で汚れた唇を手の甲で拭い、そう答えるアイリスにリネックは言葉が出ない。

その、自分を責めるリネックの姿に、アイリスは自分が彼の罪悪感に付け込み、この状況を作り出したことを強く意識する。

 

――あの日、ユーガルドがウィテカーに謀反を起こされ、前代未聞の政変の可能性に帝国が揺れた中で、アイリスは大きな決断を迫られた。

 

あの瞬間、普段なら決して回らないような速度で頭が働いて、アイリスはユーガルドがウィテカーの謀反の刃を受け入れ、死を迎える姿を幻視した。

『茨の王』としての影響力が拡大し、皇帝としての政務に差し障ると考えたユーガルドは、『選帝の儀』を終えてしまった状況からも退陣するには死を選ぶしかない。

元々、アイリスとのことがなければ、ユーガルドは『選帝の儀』を辞退し、領地の安堵だけを望むような無欲な人なのだ。

その彼が、刃を受け入れる未来が、アイリスにははっきりと見えて――。

 

「そんなの、ダメ……」

 

ユーガルドが命を落とす。

それを想像しただけで、アイリスは全身の血が冷たくなるのを感じる。

愛する人がいなくなるなどと、その事実は世界に大きな大きな影を落とす出来事だ。

しかし、それだけではない。

 

この世界は、ユーガルド・エルカンティを失うべきではないのだ。

ユーガルドは優れた能力の持ち主で、誰もが尊敬すべき人格者で、彼が皇帝の座に就くことでヴォラキア帝国の様々なものがよい方向へ変わっていくはずだ。

エルカンティ領で暮らしていたアイリスが保証できる。エルカンティ領をあれだけよい場所としてまとめたユーガルドの力は、帝国全土にも好影響をもたらせる。

 

だから、だから、だから――、

 

「――センセイ、お願いがあります」

 

「モイ……?」

 

「『狂戦病』について、わたしも調べました。病気を治すのに使った薬草……センセイなら、他の使い方もできますよね?」

 

「それは……モイ!?まさか!」

 

「なんだ!?おい、テメエ、何を考えてやがる!」

 

アイリスの話の切り出し方に、察しのいいリネックが目を見開く。その傍ら、アイリスを支えるヴォルカスが、説明を求めて声を荒らげた。

その、自分を支えてくれるヴォルカスの手に手を重ね、アイリスは告げる。

 

「わたしの体はどうなってもいいです。――どうか、わたしをもう一度、あの人と触れ合えるようにしてください」と。

 

――そうしてリネックに煎じさせたのが、『狂戦病』を疑似的に再現する薬湯だ。

 

それを飲むことで、アイリスは自分の体に多大な負担をかけながら、以前と同じように一定以上の痛みを遮断し、ユーガルドの近くで接することができる。

だが、かかる多大な負担は確実に、アイリスの心身を激しく消耗させていく。

 

「薬湯なんてものではないモイ。小生は……小生が煎じているのは、毒モイ」

 

「センセイ……」

 

肩を震わせ、悔し涙を流すリネックをアイリスは痛々しく見る。

彼にこんな顔をさせ、後悔を背負わせ続けているのはアイリスだ。自分の、あまりにも残酷なワガママに付き合わせていると、アイリスは何か言わねばと口を開き――、

 

「――テメエは、謝るんじゃねえよ」

 

荒っぽい声が頭上から降ってきて、次いでアイリスの体が抱き上げられる。

それをしたのはたくましい獣毛に覆われた腕で、その持ち主はアイリスが自室で血を吐いていることを知っている相手。

 

「ここにいたら、おかしいですよ。あなたは、次の『九神将』に……」

 

「ならねえ。オレは帝国につくんじゃねえ。テメエについてんだ」

 

「――――」

 

「皇帝野郎にもそう言った。アイツは、それで構わねえとよ」

 

そうぶっきらぼうに言って、黒の狼人は感情の読めない唸り声を上げた。

それが怒りだとしたら、その矛先はどこに向けられたものなのか。それが悲しみだとしたら、やっぱりどこに向けられたものなのか。

 

「わたし、あなたに何をしてあげたらいいのか、わかりません」

 

「わかる必要ねえよ。そら、水だ」

 

寝台に座らされ、水の入った杯を渡される。ぐっと、血の味がする水を飲み下し、アイリスは深く息を吐くと、血の気の失せた顔で微笑んだ。

 

「うん、元気になりました。もう全然、全然大丈夫そう」

 

「――。あのな、戴冠式は済んだ。もうこれで、皇帝野郎につまらねえちょっかいかけようって奴は出てこねえ。糸目野郎がつまらねえとは言わねえが、だから」

 

「――。ダメ、やめません」

 

「――ッ、なんでだ!なんでテメエは……!」

 

「……閣下の、お傍にいたいんです」

 

声を荒らげ、アイリスの心身を心から案じるヴォルカスに、アイリスはそう答える。

それは何の正当性もない、ヴォラキア帝国の未来のことや、事情を知るヴォルカスとリネックへの思いやりもない、ただのアイリスのワガママ。

 

アイリスという一人の女が、ユーガルドという愛する男の傍にいたいがため。

ただそのためだけに、自分の命を削り、よくしてくれる人たちを傷付けて、何より、愛する男を騙しながら、毒を飲み続ける。

 

「軽蔑してください。センセイも、煎じ方だけ教えてくれれば、もう……」

 

「これは!」

 

「――――」

 

「これは扱いの難しい薬モイ。教えたところで作れるものではないモイ。何より、小生には求めに応じた責任がある、モイ……」

 

苦しげに、それでも責任を手放さず、リネックはアイリスの提案を拒んだ。

そのリネックの言葉に目を伏せ、そしてアイリスはヴォルカスを見る。その狼人の金瞳の中に、自分の決断への罰を求めて、アイリスは。

 

「オレはテメエから離れていかねえ。覚えておけ」

 

「――。意地っ張り」

 

「テメエが言えた話か、バーカ」

 

静かな声で、これまでで一番優しい悪態をつかれ、アイリスは小さく笑った。

そうして、座っていた寝台に潜り込み、アイリスは休息する。できるだけ、体力は温存しておきたい。――ユーガルドと接する以外に、時間を使えなかった。

 

起きている間も、寝ている間も、寝ても覚めてもユーガルドのことを考えていない。

恋に恋する乙女のように情熱的に、でも恋に恋する乙女のように夢見る気持ちではなく。

 

「ユーガルド閣下、わたしは、あなたを」

 

――アイリスは、『茨の王』に、命懸けの恋をした。

 

「愛しています」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――その日は、昨日まで長雨続きだったのが嘘みたいに空が晴れて、きっと夜にはしばらく輝けなかった星々が満天の光を放つだろうと思わせた。

 

星は、嫌いじゃなかった。

どこへいこうと、何をしていようと、夜に空を見上げれば星はそこにある。変わらないでそうあってくれるものに、救われる思いがあった。

太陽でさえ昇っては沈み、月でさえ満ちては欠けていく。

星にはそれがない。だから、星は好きだった。

 

我が星と、そう呼びかけられる女がいた。

自分がそんな風に、女を呼ぶなんて考えたこともない。どれだけ面の皮が厚ければ、人のことをそんな風に呼んでも平気でいられるというのか。

自分には無理だ。できない。だが、そう呼びかけたくなる気持ちはわかった。

 

強いものも弱いものも、男も女も、ニンゲンも亜人も、暗闇の中を歩くのは怖い。

星は、道しるべだ。恐ろしくてたまらないものから、自分を救ってくれる道しるべ。

 

だから、彼女の存在は、自分にとっても、星だった。

 

「――ッ」

 

爆ぜるほどに心の臓が痛み、ヴォルカスは喉の奥で呻き声を押し殺した。

絡みつく茨、不可触の棘に命の源を貫かれる感覚は、戦士として帝国最高峰と称賛されるまでに至ったヴォルカスにとっても、思考が破裂しかける痛苦だ。

だがしかし、その耐え難い苦痛も、心が冷え、割れ砕けていく感覚と比べれば何ほどでもなかった。

 

「――テメエはバカだ」

 

呻き声を堪え、それでも堪えられなかった本心が口からこぼれる。

その屈んだヴォルカスの足下、血溜まりの中に倒れている女の姿があった。

柔らかな亜麻色の髪に、血色の悪さを隠そうと似合わぬ化粧をした幼さのある顔立ち。この細い体で、痛みに耐えるために毒を飲んで気丈に振る舞った女だ。

 

血の気の失せた顔で倒れたアイリス、彼女をヴォルカスは抱いている。

その血の気の失せた原因は、アイリスの背中から胸にかけての鋭い傷にあった。切れ味鋭い刃に背中から抉られ、彼女の命の灯は消えている。――否、刃ではない。

彼女の心の臓を、茨に絡みつかれるそれを抉ったのは、獣の爪だ。

 

アイリスの体を抱きすくめる反対の手に、小さな、命の源が乗せられていた。

 

「……何故だ」

 

弱々しく、か細い男の声が水晶宮の庭園の風に紛れて届く。

二人はここで待ち合わせをしていた。毎日の政務の最中、日に一度は必ず時間を共にするため、皇帝と皇妃は誰にも邪魔されぬ逢瀬の時をここで過ごす。

そこに、いるはずのない黒い獣と、あるはずのない光景を目の当たりにして、男――ユーガルド・ヴォラキアは青い目を見張り、立ち尽くしていた。

 

何故、という言葉には様々な疑念が含まれていた。

そして同じように、その疑念には様々な答えを返すことができた。

 

何度も、何度も考えたのだ。

この爪にかけるのであれば、アイリスではなく、ユーガルドの方なのではないかと。

そうする方が、ずっとずっと自分の心情には則しているように思えた。

 

だが、しかし、小さな群れの長から、大きな群れの長へと変わっていった中で、より大きな群れを率いるユーガルドの存在、その不可欠さを理解した。

アイリスの言う通り、ヴォラキア帝国からユーガルドを奪うことはできない。

ユーガルド亡き後、帝国は荒れに荒れ、乱れに乱れ、全ては台無しになるだろう。

 

それは、自分も、アイリスも、ユーガルドも、関わった全ての誰もが望まぬことだ。

だから、その選択はできない。しなかった。

代わりに、こうした。

 

彼女が苦しみながら、毒を飲まなくてよくなる方法は二つだけ。

毒を飲む理由がなくなるか、毒を飲めなくなるか。

そのために――、

 

「――――」

 

大きく口を開けて、手に乗せた軽すぎる命の源をそこへ落とした。

血の味がするそれを喰らい、飲み下し、胃に収め、黒い獣毛を彼女の流した血で汚しながら、ゆっくりと細い体を抱いたまま立ち上がり、相手と目が合う。

 

アイリスを失えば、ユーガルドは自暴自棄になるかもしれない。

そのときを少しでも先延ばしにするために、アイリスは命を削って微笑み続けた。それを自分の独断で終わらせたのだ。続けさせる腹案は、ある。

 

怒って怒って怒って、怒り狂うがいい、『茨の王』。

その怒りを――、

 

「何故だ」

 

「狼人の性だよ。最初に情けをかけられたときからずっと、この瞬間を狙ってたんだ、バーカ」

 

「ヴォルカス――!!」

 

血で汚れた牙を見せて嘲笑い、言い放った直後に剣風が迫る。

空の鞘から抜き放たれた神々しい『陽剣』が、世界を焼き尽くさんばかりの熱を帯びながら迫りくるのを、ヴォルカスはアイリスを抱く腕に力を込めて迎え撃った。

だが、鉄さえ切り裂く自慢の獣爪は、ヴォラキア帝国の至宝たる宝剣の一合にも耐えられず、指が吹き飛び、手首が絶たれ、右腕が肘で斬り飛ばされる。

そして、『陽剣』ヴォラキアの真の脅威は、そこで力を発揮した。

 

「――ぉ」

 

斬られた腕の痛みを感じるより早く、ヴォルカスの視界が真っ赤に染まる。

斬撃を起点に傷が燃え上がり、漆黒の狼人は全身を炎にくるまれ、呼吸を断たれた。

その燃え盛る炎の中、ヴォルカスは左腕に抱いたアイリスを見下ろし、彼女の体に炎が一切の影響を与えていないのを見届け、規格外の剣だと呆れる。

 

呆れて、意識が焼き切られそうになるが、まだ諦められない。

このあと、まだ、やらなくてはならないことが、ある。

 

――ヴォルカスは、群れを重んじてきた。

群れとは、自分の所属を意味するもの、全てだ。それはヴォラキア帝国であり、エルカンティ軍であり、リネックたちの仲間であり、狼人であること。

それらがヴォルカスにとって、物事を判断するときの一番の理由だった。

 

その、これまであった優先順位を、変える。

何よりも、群れを優先してきた。――それを、『星』を優先することに、決める。

 

「これで、終わったと、思うな」

 

焼かれながら、肺に入れてあった残り僅かな息を使い、ヴォルカスは炎の幕の向こう側に立つユーガルドを見据え、告げる。

『陽剣』の炎に焼かれ、消えぬ焔に魂まで焼き尽くされるヴォルカスが、何を言ったところで負け惜しみと断ぜられよう。だが、それでもユーガルドは死にゆくものの言葉を遮ることができない。そういう『茨の王』だと、知っている。

 

「オレを殺せば、テメエは憎まれる。オレの、他の同胞たちの、牙が、お前を……」

 

「今、そのようなことを――」

 

炎の幕の向こうで、ユーガルドの表情が悲痛に歪み、言葉が途切れる。

感情的に激発し、ヴォルカスを怒鳴りつける衝動が彼を過ったかもしれない。しかし、彼はその衝動を抑え込み、

 

「そなたの悪意が同胞を頼り、それらが帝国を狙わんとするなら、いくらでもくるがいい。余の手で、必ずやその悪心を根絶やしとする」

 

「……ハン」

 

そう、絞り出すようにユーガルドが言い切ったのを、ヴォルカスは笑って聞いた。

どこまでも理性的で、皇帝になりたてでも皇帝らしい物言い。だが、常のユーガルドであったなら、それでも刃を振るうのに、根気強い語らいを必要としたはずだ。

その段を飛ばし、ヴォルカスへ『陽剣』を振るった。

 

「テメエも、ただの男だったじゃねえか」

 

アイリスの死に、理性的でなかったユーガルドを見て、そうこぼす。

生き甲斐は与えた。生きてやるべきことは残した。星を優先し、無関係の『狼人』という群れを巻き込むことに申し訳なさはあるが、後悔はしない。

あとはせいぜい、

 

「テメエは、ゆっくりこい」

 

勝手にこんなことをして叱られている間だけ、彼女を独り占めできるから。

 

――それがヴォルカスの、『茨の王』を愛した少女を愛した狼人の、選択だった。

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

一つ、ヴォルカスに誤算があったとすれば、それはユーガルド・ヴォラキアが彼の想像する以上に、ただ一人の男としてアイリスを愛していたことだ。

 

苦しみ続けるアイリスを見ていられず、ヴォルカスはその理由を根本から絶った。

そして、毒を飲み続けてまでアイリスが望んだユーガルドの在り方を、自分なりのやり方で新たに与え、ヴォラキア帝国を滅びから救おうとした。

 

生き甲斐を与えることで、そうしようとした。

その目論見は実を結んだが、その結ばれ方はヴォルカスの予想と異なっていたのだ。

 

ユーガルドはアイリスの死と、その死がヴォルカスにもたらされたものと公にした。

その上で、アイリスを殺したヴォルカスと同族の狼人と、その殺害に協力した土鼠人を残らず捕縛し、処刑するよう命じた。

その怒りに任せた行いが、ユーガルドが在位し続けることの理由になれば、ヴォルカスの目論見は成功したと言えた。事実、それは半分正解で、半分間違いだ。

 

ユーガルドが狼人と土鼠人に対する熾烈なお触れを出したのは、ヴォルカスの目論見通りだったが、それが怒りに任せたものでなかったことが、目論見違い。

 

ユーガルドはただ、怒りを理由に族滅を命じたのではなかった。

そのものたちの命を用い、愛する星が死してもなお、滅ばぬように縛めたのだ。

そして、ユーガルドがそれをしたのは――、

 

「――閣下、『魂婚呪』という呪いがございますわ」

 

そう、棺に納められたアイリスの傍で、動かれずにいたユーガルドに声をかけたのは、長かった赤髪をバッサリと短くしたテリオラだった。

 

ウィテカー・ゴルダリオの謀反を理由に、ゴルダリオ家は取り潰しとなり、生き残りであるテリオラもゴルダリオの家名を捨てざるを得なかった。

それ故に、彼女はそれまでの自分と離別する意思を、その断髪で表していた。

 

そうして生き方を改める機会を得ながら、なおもテリオラはユーガルドに仕えていた。

ゴルダリオ家に仕えていたシノビをまとめ、ユーガルドの帝国統治にこれからも協力すると恭順の姿勢を示して。

 

その彼女が、棺の傍を離れられないユーガルドに冒頭のように告げた。

耳にしたことのない単語に、ユーガルドの視線が向けられると、テリオラは切れ長な瞳を細めて、一瞬だけ、痛ましい眼差しをそこに宿した。

だが、その感情は瞬きで掻き消され、彼女は言う。

 

「それは死したものの魂を、回廊へと迷わせず、その地に結ばせ、留める術法ですわ。回廊へ迷い、通り抜ければ魂は漂白される。でも……」

 

「――。それに、何の意味がある」

 

「アイリス様は亡くなられました」

 

「――――」

 

「ですが、その魂の消滅を免れ、あの方の面影を強く残したまま、再誕することが適うかもしれませんわ」

 

テリオラの声には冗談めかしたものも、かといって狂気的なそれもない。

淡々と、これまで仕えてきたときと同じように、知り得た情報をユーガルドに判断させるために、嘘偽りなく述べている声音だった。

 

「……『魂婚呪』。まるで、魔女の魂の救済を願う魔女教のような物言いだ」

 

「救済を願われる方が、魔女ではなく、アイリス様という点が違います。……閣下、どうか今一度、立ち上がってくださいまし。そのために」

 

「そのために?」

 

「あるいは閣下が、再びアイリス様と再会できますよう、できる手の全てをお打ちします。第六十一代の皇帝の座は、閣下のものです。どうか、どうか」

 

テリオラの言葉には祈るような、縋るような嘆きが込められていた。

彼女もまた、兄や長く続いた家の歴史を『選帝の儀』を理由に失った。ここでユーガルドが倒れれば、その失ったものさえ無意味にしてしまう。

そのために、テリオラはこうも必死で。――そこでようやく気付く。

 

「そなた、どうやって立っている」

 

聖堂で、棺の傍に佇むユーガルドの目の前にテリオラは立っている。その美しい顔に苦痛の色がないのを見取り、ユーガルドは訝しんだ。

なおも、茨の縛めの効力は薄れていない。ユーガルドに近寄るものは傷付けられる。アイリスがいなくなった今、例外はいない。

 

「毒を飲みましたの」

 

そのユーガルドの問いに、テリオラは答える。

毒を飲んだと。その意味するところの理解に遅れ、ユーガルドは目を瞬かせた。

 

「しばし、体の感覚を失うものです。これがあれば閣下のお傍に」

 

「何故、そうまでして……」

 

「必要なことですから。――閣下に、世継ぎを残していただくために」

 

「――――」

 

覚悟を決めたものの断言、それを聞かされたユーガルドが息を呑む。そのユーガルドの反応に目尻を下げ、テリオラは自分の胸に手を置いた。

例外なく、不可触の茨に心の臓を縛められながら、その苦しみを毒で遠ざけ、そうした理由を彼女は大いなる覚悟と共に告げる。

 

「帝国史において、ヴォラキア皇帝は真実愛した女性との間にだけ子を作らなかったこともあったとか。帝都の東部、ペネロープ湖は過去の皇帝が愛した女性の名を付けたもの。その方との間に子はなく……閣下も、同じようになさってくださいまし」

 

「テリオラ」

 

「必要なのは、ヴォラキア帝国を後世へ続けていく意思。そこに愛情は不要です。閣下の愛情の全ては、どうかアイリス様へお注ぎください」

 

「――――」

 

「その代わりに、次代の皇帝となり得る皇子を、毒を飲んで女たちが産みましょう。まず誰よりも先に、私が」

 

毒を飲んで、茨に耐えて、子を生して、帝国を継ぐ。

そうまでして尽くしながら、テリオラは愛を欲さず、それはアイリスへ捧ぐがいいと告げる。生きる理由は自分が作ると、壮絶な呪いを背負う覚悟までして。

 

そのテリオラの言葉に、ユーガルドは目をつむった。

瞼の裏には、棺の中で静かに眠るアイリスの、数多の表情が浮かんでは消えた。

そして――、

 

「そなたの提案は熟考しよう。だが、『魂婚呪』についての責を、そなたに背負わせることはせぬ。それは他ならぬ、そなたが申した通りだ」

 

「――――」

 

「愛を以て呪いを生み出さんとするならば、その責は余が負わねばならぬ。余と、アイリスとのことだ。――そなたもヴォルカスも、邪魔してくれるな」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「……どうして、小生を匿ってくれたモイ?」

 

「必要に駆られてのことです。あなたもヴォルカス様も、私に何一つ相談なさらずにアイリス様のことを……」

 

「――。すまないモイ」

 

「いいえ、詮無いことでした。お兄様がああしたことをされて、その妹である私をあなた方が信用できるはずもありませんでしたもの」

 

「ユーガルド閣下は、なんと?」

 

「……御自分で背負われると。私、荷物も背負わせていただけませんでした」

 

「それは、それは違うと思うモイ」

 

「そうでしょうか?私は大好きな方たちに、何も分け与えてもらえない。お兄様にも、あなたたちにも……アイリス様にも、ユーガルド閣下にも」

 

「――――」

 

「じきに、帝国では触れが回ります。狼人と土鼠人への粛清が始まる……」

 

「同胞たちには詫びる言葉もないモイ。でも、小生もヴォルカスも、選んだモイ。群れよりも、アイリス様とユーガルド閣下を」

 

「……毒は、どのぐらい用意できそうですか?」

 

「あるだけ作るモイ。テリオラ殿が用意してくれた隠れ家……ヴィオラーヌ湖水に移ったあとも、できるだけ」

 

「お願いします。あの場所は……そうですわね。頻繁に出入りがあってもおかしく思われない場所として、罪人の監獄でも作りましょうか。目くらましになりますわ」

 

「……テリオラ殿」

 

「ええ、なんでしょう?」

 

「閣下に、ご自分の気持ちは伝えたモイ?」

 

「お慕いしていますと?」

 

「モイ」

 

「御冗談でしょう。――たとえ、『盗帝』の妹でも、盗人にならない女としての矜持が、私にもありますもの」

 

「――そう、モイか」

 

「ええ、そうです。――どうか、お元気で、リネック様」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の出会い。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

かくして、『茨の王』と少女との道は分かたれた。

そうして少女は失われ、独りでなくなった王は再び独りとなった。

 

少女の命を喰らった狼と、少女に毒を飲ませた土鼠は帝国を追われた。

王を導いた詠み人は焔に倒れ、王を支えることを望んだ賢女は次の皇帝を産んだ。

 

剣狼の国の歴史は続いていく。

 

続けることを選んだ王は、その生涯を離宮で正しく過ごした。

狼は待ち人を回廊で待ちぼうけ、土鼠は剣の島で毒と薬を作り続けた。

賢女は毒の影響で早くに臥せり、亡くなる前に初めて王へと想いを告げた。

 

『茨の王』は最期まで、自分以外を呪うことなく、独りで生き切り、死に切った。

そして――、

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

「――わたし、は」

 

長い、長い時間が過ぎていた。

終わってしまったはずの魂が洗浄され、新たな命として芽吹くのに十分な歳月が。

 

自分が何者なのか、魂の形を思い出した途端に、肉体がそれに追いついた。

かつて、何十年も前、自分はこの地で、アイリスと呼ばれていた。

 

何故、アイリスと呼ばれた自分が蘇ったのか、その理由を魂が理解している。

この魂が『アイリス』であり続けるために、どれほどの犠牲があったものか。

 

「ヴォルカス、センセイ、ウィテカーさん、テリオラさん……」

 

長い年月の果てに、すでに失われてしまったものたち。

自分がこうして、『アイリス』であり続ける状況を作るのに関わった人たち。

そして――、

 

「――ユーガルド閣下」

 

山の上、風にあおられながら眼下を見下ろし、アイリスであることを思い出した少女は、かつてと違う体で顔を覆い、とめどなく涙を流した。

あのときの自分のワガママで、どれほどの血が流され、命が失われたのか。

自分が死んでしまったあとで、あの方はどれほどの寂しい時を過ごしたのか。

 

それでもなお、ユーガルド・ヴォラキアがアイリスを愛した証が、そこにあった。

 

「……星の形の、都」

 

ヴォラキア帝国、帝都ルプガナ。

第六十一代皇帝、ユーガルド・ヴォラキアの在位の間に作り変えられた都市、その城壁は五つの頂点を持つ、星の形をしている。

 

『茨の王』と呼ばれながら、滅私と言われるほどに帝国に尽くした皇帝。

その皇帝が生涯で唯一、自分の望みとして作り変えた、星型の城壁――。

 

ユーガルドが、自分の星を忘れていない証。

 

「このままじゃ、ダメ」

 

涙を拭い、かつてアイリスだった少女は立ち上がった。

自分の胸の中、存在を主張し続ける魂は大地に縛られ、幾度でも、何度でも、捧げられた代償を理由に、居座り続けることを許すだろう。

その、許しはいらない。この場所に、あの方はいない。

 

だから――、

 

「探さなくちゃ……」

 

自分を、この大地に縛り付ける縛めを解く方法を。

あの、慟哭の時代から延々と残り続けてしまった、アイリスの魂を回廊へ送らないための生贄、それを生むための犠牲の歴史。

それを、あの時代の最後の一人として、終わらせなくてはいけない。

 

「――わたしは、あの方の星なんですから」

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

――古き物語は語る。

 

それは独りの王と、一人の少女の物語。

独りだった王が少女と出会い、独りではなくなった物語。

 

全ては瞬きのように刹那の思い出で、全てを焼き尽くす炎のように情熱的で、全てと引き換えにできるほど鮮烈で、全てを捧げた先の未来へ続く物語。

 

長きにわたり、人々の心に強い強い炎となって残り続ける、王と少女の物語。

その、綴られる物語の、綴られなかった史実を孕んだ古の物語である。